II、坂本龍馬特集   大野 正義  平成13,5,1 (平成25,11,21)

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                                   I、四国遍路特集

 龍馬については世間に多くの誤解が流布しています。主にそれは小説家の責任で、歴史の研究者の責任ではないと存じます。しかし、高知県の人々の恐い顔を想像すると、これらについて何事かを発言するのは少々億劫になります。

[幕末史理解のキイワードは敗戦国管理 ] 

  1、桂小五郎の書留(宮内庁所蔵文書)の検討

[問題提起]
 
 薩長同盟の証拠とされる宮内庁書陵部所蔵木戸家文書・桂小五郎の書留(メモ)について内容を検討してみたい。慶応二年正月、長州藩の桂と薩摩藩の西郷・小松・大久保らが、両藩の協力関係について会談した。そしてその内容を桂がまとめ六箇条に整理している。そしてこの文書の裏面には、当該会談にも同席していた坂本龍馬が裏書しており、薩長両藩の同盟成立の証拠とされている。従って龍馬の役割も「同盟成立を仲介斡旋した」と高く評価される根拠の史料となっている。
 しかし,筆者は両藩の関係について通説とはかなり異なる見解を持っている。そこで、この史料の内容を再吟味し、「同盟」と言い切れるかどうか、政治的・軍事的な意味について再評価し、筆者の視点をお示しようとするものです。

[背 景] 
 坂本龍馬が亀山社中で活躍した時代は、現在から見れば幕末かも知れないが、その当時としては未だ徳川幕府が厳然とそびえていた時代です。第一次長州征伐以後のこの時代に、戦勝国側の薩摩藩が、敗戦国に落ちぶれた長州を相手に、敢えて対等の政治同盟や軍事同盟を結ぶ選択をしたかのように見る史観は全く理解出来ません。後世の朔及的な視点・史観としか言いようがありません。
 禁門の変で交戦敗北し、第一次長州征伐で不戦敗北した長州藩、二度の戦争で敗戦国となり、京都での地位をも失い、敗戦国管理のもとにあった長州藩は、国家存亡の危機に瀕していました。そして、やがて攻撃して来るであろう幕府軍を相手にし、祖国防衛戦争を戦い抜く以外に選択肢がありませんでした。それ以外の外交選択肢や、安全保障政策上の選択肢は、幾ら探しても見当たりません。例え、破れかぶれの大博打であってもです。
 これに対して戦勝国側の薩摩藩は違います。幕府軍を相手に乗るか反るかの大祖国戦争を遂行しなければならないような国家課題は皆無です。敗戦国長州藩の国家目標とは一致しません。
 しかし、幕府の支配力を少しでも弱めたいという要求は、薩摩藩の基礎課題でもあります。幕府の支配を表層で受容し、深層で拒否していた薩摩藩としては、「第二次長州征伐で幕府権力が疲労消耗し、その力を弱める」という事になれば、薩摩藩にとっての国益に適います。従って、薩摩藩にとって長州藩は利用価値がありました。
 しかし、公式には薩摩藩は幕府側の中心的存在であり、戦勝国の一員として、敗戦国長州藩とは敵対関係にあります。そこで薩摩藩は、徳川幕府に対して面従腹背行動をとります。そして、外交自立出来得ない敗戦国長州への裏援助政策を採用します。
 しかしこの政策は、直接には実行出来ません。そこで間接的な迂回手段の仕組みを作りました。それが亀山社中です。そして、この組織の人材には失業した技術者達が採用されました。閉鎖された神戸の海軍操練所の塾生達です。彼等は工作員として裏援助活動で活躍しました。
 間もなく、長州藩は第二次長州征伐の幕府軍に勝利しました。その結果、薩摩と長州に共通基盤が出来、両者の関係も相互依存関係に上昇し、慶応三年九月には両国間に初めて倒幕課題の盟約が実現します。長州藩の国家目標も、第二次長州征伐を境に「祖国防衛(朝廷からの御赦免を含め)」から「倒幕」に大転換します。

 [六箇条の検討]
 まず、第一項「一、戦と相成候時は、直様二千余の兵を急速差登し、只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置、京阪両処相固め候事」については、長・幕両軍が開戦後に、薩摩は直ちに京都に派兵し、薩摩の在京軍を増強すること。更に大坂にも千人程の兵を配置して、政局展開のセントラル・ステージである京都・大坂でのイニシアチーヴを確保すること。そうする事で長州藩の地位回復課題の為の朝廷工作「冤罪の御赦免」の条件整備をする、という内容である。
 もとより戦場では長州軍の単独交戦が大前提である。そして薩摩藩は側面援助に位置付けされている。この原則は六箇条の全体を貫く大原則である。
 さて、実際の局面展開では、六月上旬に長州攻撃が始まったにもかかわらず、薩摩藩は状況把握に時間をかけ、兵力投入は七月下旬という用心深さであった。というのは、幕府軍が各方面で敗北したのを見届けて後、戦局の動向予測がほぼ確定後に派兵行動している。それは、あたかも競馬で馬がゴールしてから馬券を買うがごとき,慎重な軍事行動であった。もとより「直様」ではなかったのだから、薩摩側の約束違反とも言える。
 第二項「一、戦自然も
我勝利と相成候時気鋒これあり候とも其節朝廷へ申上、屹度尽力之次第有之候との事」については、長州軍が少しでも勝利しそうな気配が出てくれば、朝廷に講和介入させるなど、薩摩藩が側面から努力する事と言う。しかし、実際には薩摩藩は戦況把握に時間をかけ過ぎた。
 第三項「一、万一
戦負色に有之候共、一年や半年に決して潰滅致し候と申す事は無之に付、其間には必ず尽力之次第、屹度有之候との事」については、長州軍の敗色濃厚な場合も、一年や半年は持ち堪えるので、その間に薩摩藩は可能な限りの努力をする事という。しかし、この約束の履行を担保するものは何も無い。空手形の典型である。もとより長州軍単独の孤立戦争である。
 第四項「一、是なりにて
幕兵東帰せしときは、屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力との事」については、開戦しないまま幕府軍が兵力を引き揚げた場合も、薩摩藩は長州藩の為に冤罪御赦免の朝廷工作に努める。ここでも薩摩藩は脇役のままである。
 以上、四箇条の大前提は、対幕戦争の基本性格が、孤立した単独の「祖国防衛戦争」である、という基本認識に立脚しています。短期戦の講和介入期待が基調です。
 これに対し,次の第五項はガラリと大きく反転飛躍して、国外進出した対外戦争の局面展開を想定しています。講和期待どころか、幕軍とののるかそるかの本格対決戦争です。
 第五項では「一、兵士をも
上国の上、橋会桑等も只今のごとき次第にて、勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を拒み、周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外無之との事」と言う。「上国」とは出国と同じような意味である。自国領を踏み出た兵力展開を意味している。戦争性格は祖国防衛戦争以上のものとなる。言外に薩摩の参戦を期待しているとも言えるが、文言には出ていない。
 ここでもう一つ大切な事は、幕府軍との決戦とは言っても、「橋会桑」軍との決戦を指している。この時期には未だ「倒幕」の主張があった訳ではない。
 第六項「一、
冤罪も御免の上は、双方誠心を以て相合し、皇国の御為めに砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、イツレの道にしても、今日より双方皇国の御為め、皇威相かがやき、御回復に立至り候を目途に、誠心を尽し、屹度尽力致すべきとの事」については、長州藩の冤罪が許されて、もとの地位を回復した場合について言及している。ここでは薩摩長州両藩の緊密な協力関係の実現を展望している。
 目的達成後のこの項目は、蛇足の如き感があり大した意味も無さそうだが、必ずしもそうとは言えない。両藩の過去を省みれば、「禁門の変戦争」から「第一次長州征伐」にかけての二度の戦役では敵対関係にあった。ようするに一方は戦勝国,他方は敗戦国の関係にあったのだから、そのいきさつを乗り越えて,新たな両国関係に入る道筋に言及しているのである。とは言えども、開戦前の時点では,まさに絵に書いた餅か,砂上の楼閣の典型例である。

   [評 価]
 最大の問題点は、六箇条の項目全てが、長州藩が勝利しないことには、有効とはならないことである。空手形の典型である。担保するものは何も無い。もし、長州藩が敗戦したとすれば、その立場から薩摩藩に違約の苦情を申し立てられるであろうか、否である。これら六項目の口約束は,未来展望において同盟予約に過ぎない。要約すれば「長州が勝てば手を組むが,負ければ見捨てる」という内容である。
 しかも、表に出ているのは長州だけで、薩摩は裏に潜んだままである。特に、軍事行動において、両国軍が共に戦うという立場を欠いている。集団安全保障の理念は微塵も無い。双務性が無く、孤立した長州藩が単独で軍事行動することを前提に、薩摩藩の側面援助を期待しているだけである。
 事実経緯においても、長州軍が各前線で勝利するまでは、薩摩藩は戦局推移を拱手傍観した。このような内容であるにも拘わらず、どうして薩摩と長州の同盟の証拠になりうるのか、筆者には理解出来ない。

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   2、龍馬理解のキイワード「肩書き・地位」

慶応元年 3月       これまでの龍馬は失業技術者
慶応元年閏5月       薩摩藩工作員
(薩摩藩のダミー結社・亀山社中が組織される)
 (慶応2年正月24日)            寺田屋で伏見奉行配下が龍馬を襲撃
                この時期には、まだ薩・長同盟は成立していない
                            過去形の裏援助があったのみ。
                薩摩藩は、敗戦国管理の下で不自由していた長州藩に裏援助し、
                 やがて起こる対幕戦争の成り行きを見守った。
  (慶応2年6月)     第2次長州征伐開始。そして、長州が勝利して行く

慶応3年2月         龍馬・中岡の脱藩罪を土佐藩が赦免
慶応3年4月        龍馬の結社を「土佐海援隊」に改変し龍馬が隊長。
               (生涯で初めて龍馬は公的地位・肩書き、を取得した)

慶応3年9月18日     薩摩・長州が挙兵討幕を盟約。後に芸州も参加。
                ここで初めて薩・長同盟が成立
慶応3年10月13日    薩摩藩に討幕の密勅。     長州藩主に官位復旧の宣旨

慶応3年10月14日    長州藩に討幕の密勅。     将軍慶喜・大政奉還
慶応3年10月15日    大政奉還を許可(幕臣達は憤慨する。松平春嶽も大政奉還に反対)
慶応3年11月1日     後藤の依頼で福井に出張、容堂の親書を春嶽に届け,3日に帰京

慶応3年11月15日    龍馬・慎太郎,近江屋で暗殺される

  3、龍馬暗殺の理由

    暗殺の劇場性 

 暗殺ドラマには必ず観客がいます。暗殺はメッセージ発信方法の一つです(極めて乱暴な手法ですが)。メッセージの受信者は極めて地位の高い人です。しかし,実際に殺されるのは受信者の周辺にいる地位の低い者です。当時、幕臣達は大政奉還に激怒していて、その怒りの対象者は,それを決断実行した将軍慶喜や、かねてからの大政奉還論者・山内容堂に対してのものです。
 しかし、暗殺を実行する際の対象者としては、周辺に位置する脇役の龍馬のような存在が最も手頃なわけです。なお、ドラマの観客には敵・味方・世間を含んでいます。

 4、『薩摩外交と坂本龍馬』

 この論考は、平成8年11月30日発行の大阪府北河内の地域文化誌『まんだ』59号(平成8年11月30日付)072−892−1019(編集部電話)に掲載されたものです。先に論じた『桂小五郎の書留の検討』(宮内庁所蔵)を補完するものです。蛇足かも知れませんが、参考にして下さい。
 なお、原稿中に挿入した写真やキャプションも省略します。更に、同誌口絵のアート紙に掲載した原史料二点(龍馬を追跡した幕府密偵の報告書)の写真と解読文についても省略します。

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 一、はじめに

 平成元年五月、朝日新聞夕刊に「坂本龍馬を追跡する幕府スパイの報告書2点発見」の報道以来、その史料の影印紹介を含む『大坂町奉行與力史料図録続編』の発刊を計画したが今だに実現していない。そこで、本誌口絵に史料公開をお願いした。
 史料2点は龍馬を追跡調査していた幕府密偵からの報告書で、大坂町奉行与力の八田五郎左衛門良成の手許に届いたものである。
 史料の初期紹介は既に『歴史読本』(平成元年八月号)で済ませたが、史料の背景分析に欠けていた。龍馬のダミー説は早くからあるが、本稿では薩摩藩の外交政策を切口に問題を再整理し薩長連合解釈の定説修正を試みたい。

 二、薩摩藩安全保障戦略の特徴

 近世薩摩藩の安全保障政策には選択肢が僅か二つしかない。極めて窮屈・単純であり、幅の狭さが特徴である。幕府に徹底服従するか、さもなくば徹底的に敵対するか、二つに一つの選択肢しかない。中途半端な対幕府外交は不可能なのだ。中立選択はユートピアだが、中立は願望からは生まれない。関係国が認めてくれてこそ可能なのである。強者は中立選択も可能だが、弱者には選択の自由がない。敗戦国日本は戦勝国アメリカとの外交で可能な選択肢の幅が狭かったのと同じことだ。
 幕府と適当な距離が置けない苦しさ、程々の交際が出来ない窮屈さ、これは関ヶ原の敗戦外様雄藩として当然の宿命でもあった。
 しかし、薩摩は地理的には江戸とは最も遠隔の地に位置していた。このことがついつい薩摩藩に油断を招く。関ヶ原で重い十字架を背負ったという厳粛な事実の記憶も時間と共にいつしか薄れていく。だが、そのような油断を幕府は見逃さない。
 徳川吉宗が幕府のタガを締め直し死亡(宝暦元年六月)した直後の宝暦三年十二月、九代将軍家重は薩摩藩に対し、木曽川の治水工事を命じる。世に有名な宝暦の治水である。
 最強の外様雄藩薩摩に徳川の覇権威力を示すことは見せしめ効果も最大となる。薩摩の外交的油断は薩摩の国益を著しく損ねた。
 戦間期あるいは平和期における非武器戦争でもある外交、これの失策で薩摩は亡国の危機に立たされた。この後遺症は幕末の政局にも徹頭徹尾つきまとう。

 三、幕府従属外交

 宝暦の治水完了後、薩摩は安全保障政策の選択肢が、幕府に徹底服従する以外にないことを改めて思い知る。以後、薩摩は外交カードに婚姻政策を用いることになる。婚姻は政治である。十一代将軍家斎の正室広大院(島津重豪娘)や十三代将軍家定の正室天璋院(島津忠剛娘)の実現は、薩摩が幕府の覇権秩序に全面服従したことの証明で、揺るぎなき徳川を天下に示した広告効果が大きい。
 改めて幕府への全面服従を安全保障戦略の根幹に据え直した薩摩は、幕末期も当然ながら徹底した幕府追随外交であった。島津久光の公武合体政策も、幕府の補強存続政策として当然の対外政策であった。文久二年四月の内ゲバ寺田屋騒動に見られるように、藩内の規律統制違反の異端者は厳しく粛清された。これは尊皇攘夷思想が紛争軸というよりも、対幕従属政策を覆すか否かが紛争軸であった。
 だから反幕的長州藩などの過激派は、断然京都から追放(元治元年七月、禁門の変)するべし。薩賊会奸の悪評など痛くも痒くもない、薩摩の国益にこそ至上の価値があるのだ。

 四、長州カードの着眼

 斜陽の覇者は覇権再構築のチャンスをうかがう。現代史ではアメリカが湾岸戦争で軍事動員に成功し覇権を再構築した事例がある。
 元治元年八月幕府はその覇権秩序の修復再建のため、長州征伐に向けて諸侯に軍役動員令を發した。しかし、この時は幕府権力の衰弱兆候が、どことなく垣間見えてしまう。
 天才外交官西郷の権謀術数はその隙につけ込む。その半年前、流罪赦免の西郷は軍賦役を拝命、やがて薩摩の安全保障戦略を担う。
 薩摩の潜在紛争管理能力と方向予知能力は鋭く磨き抜かれている。関ヶ原の敗戦外様大国として徳川の世を生き延びてきた薩摩は、一歩踏み外せば亡国の地獄に堕ちるタイトロープを長年渡ってきた外交大国である。
 西郷は第一次長州征伐で熱い戦争を回避し外交交渉での講和終結を目指した。そうした理由の一つは長州征伐の原因となった蛤御門の熱い戦争で、財政負担等、戦争展開の組織負荷の大きさを痛感、苦労したからである。
 しかし、最大の理由は薩摩の国益に有効な長州カードへの着眼であった。禁門の変以前から将校級の偵察者中村半次郎等を送り込み情報収集したうえでの高等判断である。
 元治元年十一月征長軍総督参謀西郷は、蛤御門戦争の際の長州軍捕虜を送還してやる、というような外交カードをうまく使いながら長州との交渉環境を整える。また、進撃中止を願い出て恭順謝罪と釈明にやって来た長州藩代表に対し、公儀目付による詰問内容まで予め内示し答弁の予行演習をさせたりする。
 寛大な処分を心配した幕閣は、大目付に長州への厳罰処分命令を持たせて広島に派遣した。だが、彼等が到着する以前に西郷は撤兵を素早く実行する。しかも撤兵条件の一つ福岡太宰府への五卿動座が実行される以前の段階、十二月二十七日の総督府会議をリードし総督に解兵令を出させた。間もなく大目付らが船で広島に到着したが、まさにその日、慶応元年正月四日、征長総督尾張前大納言徳川慶勝は広島を出発し帰路についていた。
 まさにこの講和交渉で天才外交官西郷は長州カードの存在に着眼し、薩摩の国益にとっての有効性と重要性に気付いていたのだ。

 五、幕府側の反応

 長州との講和以来、薩摩外交には微妙な変化が出てきたが、事は余りにも重大すぎる。本来,幕府一辺倒の選択肢以外に無かったはずの薩摩外交が、もし軌道修正したとなれば、やがたは幕府との敵対にまで突き進むではないか。事態は深刻,影響は絶大である。
 当然、幕府の情報収集活動は活発になる。しかし、薩摩の公式立場は幕府側だから藩の正規役人には職権が及ばない。勢いダミー龍馬に対する監視の目が鋭くなる。報告は大坂町奉行から大坂城代、そして老中まで届く。
 龍馬は一年後の慶応二年正月二十二日、薩長両藩代表者会談にオブザーバー出席し、その直後二十四日未明に寺田屋で伏見奉行林肥後守の配下に襲撃される。余りに劇的過ぎて龍馬が大物に見えてしまうが、幕府は船オタク浪士を締め上げて、薩摩の安全保障戦略の変化に関する情報を取りたかったのだ。

 六,薩摩外交の軌道修正

 過ぐる元治元年末の講和は長州に寛大な結果となったが、これは長州の過激思想に共感した薩摩の温情配慮から出たものではない。薩摩は長州の利用価値を認めただけで友人となった訳ではない。西郷の頭には薩摩の国益だけがあり、連帯思想などかけらもない。この落差こそが薩長の同盟力学であり両藩関係の枠組を規定する。この枠組は慶応三年九月の薩長芸三藩の挙兵討幕同盟成立まで続く。
 西郷が幕府を完全勝利させないよう外交決着に務めた底意地の悪さは、根本的には幕府権力の強化と薩摩の国益が逆比例の関係にあるという認識、外様雄藩的判断から出てきた外交選択である。しかし、この微妙な薩摩外交の軌道修正は西郷の独断先行であり,大きなリスクを伴うものだった。
 幕府権力の修復にケチをつけ、薩摩への幕府からの圧力を軽減させる。このような西郷外交は、幕府権力の衰弱を前提に、幕府一辺倒の従属外交からの離脱が可能である、という驚くべき大胆な判断が前提になっている。
 薩摩外交に無かったはずの第三の選択肢への着眼である。対幕府従属外交でなく、また敵対外交でもない、第三の選択肢を模索し軌道修正を考えようというのである。

 七、長州カードの特殊性

 「幕府との間に距離を置く」というような判断変更の重みと危険性は、とうてい後世の人間には理解が及ばない。寺田屋での内ゲバ粛清事件も記憶に生々しい。薩摩の安全保障戦略の根幹を変更することなど、とてもではないが軽々に扱えない。やはり、長州カードの行使には慎重にならざるを得ない。
 だが,表向きにはともかく、極秘に潜行すればどうであろうか。何かうまい手法はないか。「幕府が薩摩の敵」などとは口が裂けても言えないが、お互い深層心理ではそう思っているのだ。単細胞人間が暴走する長州藩の反幕府姿勢は、薩摩の国益にとって捨て難い利用価値があるではないか。
 敵の敵は味方というが,慶応元年上半期頃でも両藩に同盟展望があった訳ではない。幕府への共同対抗思想も全く無い。但し,長州カードは魅力的だった。
 しかし、嵐の海に放り出され矢面に立ちボロボロにされるのは長州の役目である。薩摩にはいつでも逃げ道があり、安全地帯で無傷のまましっかり国益を守ることが絶対の条件である。かくして、薩摩藩のダミーに誰を、何をどう使うか、やがて坂本龍馬には利用価値があるではないか、と手法が徐々に具体化していく。現代の大企業が行儀の悪いことをする時と同じ手法だ。

 八,薩摩の飼犬

 薩摩藩安全保障戦略の極秘修正が藩論としてコンセンサスを得たのは、第二次征長令が出され御三家紀州徳川茂承が先鋒総督に任ぜられた慶応元年五月に入ってからである。だが、開戦は一年先迄ズレ込む。
 とりあえず征長出兵拒否の方針で薩摩は意思統一する。そして、本格的に長州カードが行使され始める。龍馬が薩長の和解を説き、亡命五卿や桂小五郎と会見するなど忙しく周旋活動を始めたのも五月に入ってからだ。
 しかし、龍馬は船が欲しくてたまらない蒸気船オタクの失業野心家で、政治も外交も全くの素人である。藩庁組織の役人として組織指導や財政運営、対外交渉の経験など皆無だからやむを得ないことでもあった。だから未熟な失敗が目立った。公式には幕府側である薩摩の高官西郷を、敵地の下関で敵将桂小五郎といきなり会わせようと企画し失敗する。
 龍馬集団は薩摩に養われた操り人形であるが、行動を開始したとたん現金なもので薩摩は彼等に対し俄かに気前良くなってくる。
 藩の直接援助を回避しつつも豪商小曽根家に援助させたりし、やがて閏五月、長崎の亀山で海技失業者グループを「社中」にまとめて養う。従来の近世用語でよく使う組合とか組合中、仲間ではなく「社中」と称するあたり、この集団の新感覚は認めたい。

 九、兵器移転

 長州カード行使のクライマックスは長州への武器移転の実行である。「陰でこっそり幕府の覇権にケチつける戦略」の中核をなすのはまさにこの部分である。薩摩藩は持駒の龍馬集団をフルに使う。
 長州は幕府による敗戦国管理の下にあり、江戸屋敷等在外公館は没収され職員も拘束幽閉済だ。
 現代のイラクと同じく制約が多く、不自由である。第二次征長軍襲来を目前に、戦争準備の最重要課題は兵器調達だが、しかし外人武器商には幕府から長州への売却を禁じている。正規の購入調達は不可能である。
 そこで八月、それを薩摩名義で購入する。その際、龍馬一味の近藤長次郎が活躍する。
 十月,同じ手法で長州は軍艦(乙丑丸)を薩摩名義で買うが、この件で龍馬は滑稽な勘違いをする。表向きの船籍は薩摩(桜島丸)でしかも操船は龍馬集団だから,運行支配権は自分達の手に確保出来ると錯覚した。
 当然ながら長州は抗議する。亡国の危機に直面し戦争準備に命賭けの長州藩海軍局支配下に属さねばならないのは当たり前の常識だ。
 長州における戦争先行現象にも無頓着で,自分に都合の良いようにシグナルを読み違える身勝手な龍馬の幼児性は、どこかサダム・フセインとも共通している。

 十、薩長連合の誤解

 いわゆる薩長連合とは,薩摩側の認識では長州への一連の裏援助過程全体を指す。慶応二年一月二十二日、京都での西郷,桂など両藩代表者会合で初めて薩長連合が成立したかのように誤解してはいけない。例え会談が無くても連合連合の実態は過去形で存在している。連合の別名は薩摩藩の長州カードである。
 裏援助の兵器移転は実行済だ。後は野となれ山となれ、七転八倒しつつ幕府と死闘してくれれば、その分だけ安全地帯にいる薩摩の国益にプラスする。この期に及んでは桂を歓待し激励するだけで良い、一向に外交交渉が始まらないのは当り前のことである。薩長交渉のテーブルも交渉事項も何一つない。片想いの長州は、完全に足許を見られている。
 一方、両藩の同盟を熱望する桂にしてみれば、幕府との軍事衝突を前に余りに切なく孤独だ。薩摩は公式立場が幕府側で本音が反幕府という面従腹背だが、その地位不整合を修正出来ないとしても、もう一歩踏み込んで長州と連携し危険負担して欲しい。

 十一、同盟予約 

 桂の薩摩への恨みがましい感情は、薩摩の飼犬として劣等感を持つ龍馬の悲哀とも共通する。龍馬からも国益至上主義批判が飛び出して来る。かくて薩摩側も少し譲歩し、次の六項目(要約)を口頭了解した。前提条件付同盟予約といえようか。
(1)薩摩は京都大坂の兵力を増強し、朝廷工作と政局の主導権を確保しておく
(2)長州勝利の気配が少しでも出てくれば、朝廷に講和介入させ長州を有利に導く
(3)長州敗北の場合も有効適切に対処する
(4)不戦の場合は長州御赦免を朝廷工作する
(5)(長州勝利の後)長州軍が京都まで進出しこれに幕府側の抵抗妨害が著しい時は、薩摩は 長州と同盟し幕府と決戦する
(6)長州が許された後は、連帯を強化する

 十二、口約束の評価

 薩摩側の認識では、この口約束は未来展望において同盟予約でしかない。要約すれば「長州が勝てば手を組むが負ければ見捨てる」という中味で、対抗同盟でも反撃連合でもない。長州が勝たない限り効力が出ない仕組みだから、約束不履行となっても敗戦長州からは苦情の出しようがない。
 (1)項は長州の為というより戦争を拱手傍観する薩摩としては、中立の地位保全上も武装強化が必要措置であるが、実行したのは七月下旬という用心深さである。というのは六月上旬から始まった幕軍の長州攻撃が各方面で敗北したのを見届けたうえでの京都出兵であった。しかし力の空白地帯への軍事進出という狡猾な狙いは、会津軍の京都残留と薩摩軍牽制を余儀なくさせ征長戦参加を阻止した。
(5)項は勝利後の長州軍が京都進出しないことには薩長共同軍事行動をしないという。
 一方、正月下旬時点での桂はワラにでもすがりたい気持ちである。この変則的口約束でも「薩摩と通じた」と理解することにした。
 だが、終わり良ければ全てよし、やがて長州は戦争に勝ち、翌年の慶応三年九月には本物の挙兵討幕盟約が成立する。後世の史家も維新成功の色眼鏡で六項目口頭了解を薩長同盟と命名し攻守同盟と高く評価する。
 しかし,昔から日本人は女郎の起請文でさえ有難がった。破られた熊野牛王の起請文など無数にある。それでも一札を交わすのがこの国の文化なのだ。慶応二年二月、切ない思いを胸に帰国の途につく桂は、口約束を明文化したものの、書簡にして私人龍馬に確認の裏書をして貰うのが精一杯だった。この狡猾な薩摩を徳川慶喜は終生許さなかったという。
 しかし、薩摩も密約趣旨の範囲内で頑張った。慶応二年四月、老中の出兵督促を強く断り続けた。また、幕府は大宰府の亡命五卿を大坂へ護送しようとしたが、薩摩は護衛強化の名目で阻止し続けている。 (終)

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 以上のような見解を1996年11月、筆者が『まんだ』誌に発表して以来、約二年の後、ほぼ同一の見解を菊地明氏もその著書で明かにしている。氏の著書『龍馬』----最後の真実----(1998年8月28日、筑摩書房発行)の123Pには、上記宮内庁所蔵史料について、「薩長同盟は軍事同盟,攻守同盟と受け取られているが、一読すれば必ずしもそうとは断定できないことがわかる。」と記述している。私の見解とほぼ同一のこのような見解が、今後とも増加して欲しいものです。
 なお、菊池氏が『まんだ』誌59号を引用した旨、明記しているのは、『龍馬』129Pだけだが、その他にも、109Pの「社中」に関する記述や、後世のおける龍馬評価の朔及的史観についても、私の見解とかなり似ている。