I、四国遍路特集  
                                   (平成26、10、29)増補  改訂  


                IV、西国33カ所徒歩巡礼特集           
                    

         II、坂本龍馬特集      INDEXへ戻る

      
大野正義(順打ち7回、逆打ち5回) 体制離脱の研究です

      『これがほんまの四国遍路』 大野正義(著) 
                            講談社現代新書(\735円) 絶版 

 
独断と偏見のホームページが、講談社・編集者のお目にとまって出版の運びとなりました。あの世の妻に励まされて出来た元地方小吏の小著作です。
自宅 〒573-1128 枚方市樋之上町9番2-1102
 

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 〔序〕 深層部位への刺激
 
 歩き遍路は深層部の系統発生情報を刺激する。深く沈殿した大過去の情報部位を刺激し呼び起こす。歩き遍路の効用は復元効果、歪曲修正効果にある。ある種の野生回帰効果で人間性のゆがみが修正される。歩き遍路は正当性を主張出来ないが、重要性は極めて高い。
 個体発生した人間個人には系統発生過程の全情報が蓄積している。しかし歴史が遠く古くなればその痕跡さえ認められない程深く沈殿している。ところが、歩き遍路を続けると徐々に深層部分が刺激されるのだ。深く沈殿していた大過去に刺激が届き、それが跳ね返って表層部へのフイードバック刺激となる。但し、刺激効果はすぐに消滅する。遍路から帰り日常生活に戻ると急速に消える。
 
 穀物の品種改良がたとえ話になる。美味しくて甘く収量の多い品種だが、病虫害や寒さに弱い穀物の場合、その品種改良にはその穀物の原初の野生種を取り入れ交配することで成功するケースがある。この事例と相似の効果が出てくるのが歩き遍路の効果と言えよう。
 肉体を極限まで痛めつける宗教者の荒修行体験での超常現象も、系統発生蓄積の深層部刺激に伴うものだ。

 
[ セイフティネット ]

 「人さまの情けにすがって生きる」このような風俗はごく日常的で、戦後の大阪の貧乏長屋で私自身が何度も経験している。戸口に立って「御報謝を」と言う門付けさんに対し、母に命ぜられて猪口一杯の米を与えることが多かったが、かなりの頻度で「お断り」と言い渡したことをも思い出す。下から張り巡らせた「庶民文化」としての「施し慣習」のセイフティネットは戦後も健在であった。
 江戸時代のお上のセイフティネットには被災者への「お救い小屋」や旅人の「往来手形」等の制度がある。往来手形の良き慣習とは「行旅病人及行旅死亡人への救護制度(村の責任)」である。この制度はやがて
明治32年に「行旅病人及行旅死亡人取扱法」として法律化される。

[ 四国とは ]
 「近場と僻地」この二つの概念は本来的には相反するものである。しかし、四国ではこの両概念が矛盾なく共存している。四国は九州・中国・近畿という扇状広域圏のお隣さんであり、この広域圏の「扇の要」に位置している。この地理的長所は四国のアイデンティティの存立基盤、下部構造となっており、「癒し機能」の最適環境であり、「癒しのアミューズメント」が可能な圏域として他に抜きん出ている。 
 

 I、セイフティネットの歴史     

  1、行旅病人及行旅死亡人取扱法の伝統     

 江戸時代も貞享・元禄の頃になると、庶民の懐具合も良くなってきて、物見遊山の旅に出かけることも多くなって来ます。神社仏閣の参拝が名目となっていますが、このような旅人の大量発生は、経済力以外にも、往来手形のセイフティネットが存在したからこそ可能となったのです。それは「困っている時に助け合うのはお互い様」の文化に由来しています。もちろんこの助け合いは「無償・相互主義」が原則です。このセイフティネットを支えていたのが庶民だったからこそ、社会の根底に根付いて伝統と呼ばれるにふさわしいものだったのです。  

「断固支払う、受け取れ」(ペリー提督)

 奇妙な文化摩擦には笑ってしまう。ペリー提督が再度来航したとき、その艦船に日本側が供給した薪や水等の物資を「無料で受け取ることには同意しない」、「われわれの支払いを拒否する限り」、物資を艦に「入れることを許すつもりはなく」と強硬なのだ。ペリーは往来手形的な発想を全く理解出来なかった。
 外国船に対しては文化3年に「撫恤(ぶじゅつ)令」が出されていたが、鎖国は祖法だからと、文政8年には異国船打ち払い令(無二念打払令)が発せられ、さらに天保13年には「薪水給与令」に逆戻りしているが、この「撫恤(慈しみ恵む)令」「薪水給与令」は往来手形の思想と軌を一にする。そこには厄介払いの狙いも含まれているが、この無償主義はペリーの商取引思想では理解不可能であった。
 交渉の際も、日本沿岸における外国難破船への救助と保護、及び難破船への必要な薪や食料等の補給という二点については、日本側は正当な要求と認め直ちに同意を与えている。(『ペリー日本遠征日記』新異国叢書第U輯)。

 撫恤(慈しみ恵む)令の思想、この日本文化は正確には「
支配者責任」の文化といえるだろう。昨今の流行語「自己責任」とは正反対のものです。農民を大切にしないと米を作れませんからね、だから生産力の維持システムでしょうね。
 日本が主権在君から主権在民になったのは戦後のことです。日本の近世社会では現代的な公共の観念が無く、「お上権力」に支配されていた。国家は自分達で作り支えているものでなく、強者が支配し国家意思の形成も支配者が独占している。被支配者・人民は包括的・全面的に支配されており、いわば「他律人間」として存在していた。決して「自律人間」ではなかった。このような包括支配構造での被支配者は権力者側に対して「包括的・無限責任」を求める立場に立っている。現代の流行語「自己責任」とは正反対の立場である。日本の近世社会における独特なセイフティネットは以上のような論理構造の上に構築された「支配者の責任履行システム」としてのセイフティネットであった。ところがこの支配網の末端組織の村は同時に自治組織でもあるという二重の性格を有していたので「お互い様文化」を育んだといえます。
 さて、今の時代にセイフティネットと言えば、すぐ思い起こすのは生活保護制度のようなものでしょうか。しかし、昭和20年代以前、大正明治はもとより、それ以前の近世社会の人々にとっては「死に場所がある」とか、葬ってもらえる、という環境条件が最も根源的なセイフティネットでした。私が幼少の頃は大阪の天王寺さんの境内や周辺部には乞食さんが多かったものですが、死に場所を求めて来ているという趣旨の大人の会話をたびたび聞いたものです。
 このようなセイフティネットは貞享・元禄の頃から制度的に徐々に確立して行きました。しかし、明治以降の近代社会では、歩く旅人が残ったのは主として四国だけです。従って、四国には近世社会の残映が多く残っています。私が度々お遍路に出かける最大の理由がそこにあります。四国でのお接待には宗教的側面と共に、旅人に対処した近世社会の慣習が認められるからです。
(蛇足)
「渡し場を上ると六部三つ打」
『誹風柳多留』五篇)。
お遍路さんでなく、六十六部(廻国渡世の巡礼、門付けする乞食も多かった)の事例ですが、渡し賃を取られないお礼に、鉦(かね)を三つ叩いて拝礼する。

 ◎六十六部遺跡の本場は四国

@六十六部・・・プロ系、全国を漂泊、ブラウン運動巡礼、自己決定、男性的。
A四国遍路・・・アマチュア系、地域限定漂泊、軌道巡礼、消し込み消化方式、女性的。


 六十六部の痕跡を最も多く残している地域は四国のようだ。遍路と六部が入り混じった四国での巡礼状況では「お遍路さん」と「お六部さん」が厳密に区分されていたかどうかは疑わしい。
 私は遍路や六十六部、巡礼という用語を余り厳密には使い分けていない。「相互転化もあり、あいまいなところもある」という見解です。松山市道後の義安寺(護国山;禅宗)で祭られている六十六部の老人は義安寺に娘を置いて四国霊場順拝を志した瞬間にお遍路さんに変身している。その場合の自己認識に大きな違いがあったとは思えない。また、熊野参詣の巡礼者を「へんろ」と呼んだ紀州大塔村の善根宿の主人も用語の概念規定に拘っていた様子は認められない。

  「きなか(半銭)にもならず六部は七里行」(『誹風柳多留』十六篇』)。
  半銭の施しも無く長距離を歩む六十六部巡礼。


(義安寺の案内石碑)
松山市の義安寺の案内石碑には「南無おろくぶさま」と敬称されている。

(義安寺境内)

(バス停に残る「六部堂」、愛媛県上浮穴郡久万町のR33号三坂峠付近)
以上2枚の写真は先発の六十六部研究において無視されていたので、敢えてここに掲載したが、つぎの写真は先発の研究で取り上げ済みである。しかし、四国における六部とお遍路さんとの関係の研究と、六部の遺跡が四国に最も多く残っている点については研究が不十分である。


(二世安穏、奉為供養僧俗六十六部、自他平等)

 上の写真は、4番大日寺と5番地蔵寺との間の遍路道の傍ら、徳島県板野郡板野町にあったが、このような六部の墓・供養塔は四国以外でも全国的にも数多く散在している。遍路の本場の四国でもこの種の石塔は各地に数多く見受けるので珍しくない。ありふれている。
 例えば板野町に隣接の徳島県板野郡上板町神宅(かんやけ)の遍路道の傍にも、「六月二十八日卒、日本廻国六十六部、泉国三好郡青山源太郎」と、砂岩に刻まれた墓碑が存在する(写真は省略)。このような墓・廻国供養塔はその他の地域でもやたらに見かけた。塚地峠の降り道や67番大興寺の手前の遍路道等々の傍らでも見かけた。
多分、六十六部遺跡の本場は四国に違いない。


札供養碑(『遍路、六部、札供養。享保九年十一月廿一日』)、香川県観音寺市奥谷地区。
遍路や六部をお接待した際に受け取った納め札の分量の多さが伺える碑文。


『日本回國供養之塔』享保十四己閏九月吉日。(観音寺市池の尻地区)


『六部地蔵尊』強い痛みに効能があるという。六部巡礼の苦行性の強さが評価されているらしい。中仙道・街道筋の関が原宿と垂井宿の中間にあり、六部が信仰対象になっている事例としては道後温泉の義安寺と同質。


「大乗妙典日本廻国供養塔供養塔、日吉郡北野村願主金・・・」
岐阜県瑞浪市八瀬沢の北野坂。中山道・大湫宿の付近


岐阜県可児郡御嵩町津橋
上半分は欠損「月十一日、定門、六十六部、同・・宗右衛門」


鈴ケ森

◎往来手形
 
 往来手形は江戸時代におけるセイフティネットでした。
 江戸時代の庶民(武士は別)の旅には、檀那寺発行の身許証明書(寺請証文)と村役人(庄屋。町場では検断)が発行する「村送り証文」の二通、これらは「往来手形」と呼ばれていましたが、必ず携行する必要がありました(村役人と寺が一通に連署したケースもある)。
 この往来手形には日本回国神社仏閣拝礼という目的以外にも、宿泊の便宜とか病気や病死の場合の援護と、旅人の故郷への情報伝達までを依頼した内容となっています。また、そのような事案が発生した旅先の土地では、村の責任において看病から葬儀、故郷への連絡まで行っていました。
 そして、これら「行き倒れ諸入用」は村の負担となります。もとより公金支出と言えます。村全体の負担であり、全構成員の税負担となって、はね返って来ます。ここで言う村とは、単なる集落のことではありません。江戸時代においては庄屋さんは支配機構の最末端の行政機関なのです。

◎お互い様文化

 日本の地方行政の底辺には「相互主義・双務主義」の考え方があります。損得に拘り、「東京が損をする」というような、暗黙ルールに違反するような発言、日本の伝統文化に反するような発言をしてはなりません。石原都知事は地方行政の思想を知らない人です。
 自治体は行政の対象となる人間をフロー概念で把握し、領域ラインのイン・アウトで収支を計算するようなことは致しません。
 戦時中の「隣組の歌」に「♪助けられたり助けたり♪」と言う歌詞があったが、そこには日本文化の真髄とも言うべき根深い特徴が見られる。「お互い様文化」とは「困っている時に助け合うのは当たり前」の文化であり、一々その都度代償を求めたりしない文化である。他人を助けることもあれば、逆に自分が助けられることもある
という文化である。このような文化は今だに日本に広く根強く残っており、四国遍路でのお接待もその典型事例と言える。そして、この四国のお接待文化は江戸時代における行路病人や死亡人に対する救助制度と深く関連している。
 病気し、さらに死亡した旅人に関して、中島三佳氏が紹介した枚方宿の史料には、「病気中の諸入用」として、飯、むしろ、ろうそく、油等の代金が、次に「検死の諸入用」、これが一番多額なのだが、検死役人の送迎費、接待費・賄費、筆代、紙代、菓子代、酒代等々全支出の3分の2以上に及ぶとのことです。
 また、「病死取行諸入用」には,棺桶代、線香代、ろうそく代,寺へのお布施等々の費用が記されています。更に、病死した旅人の同行者への「出立心付」まで支給しているのです。「ご立派なことで」「しかし、大変な出費ですね」としか言いようがないですね。江戸時代は見事な秩序とルールのある社会でした。

(蛇足)
 枚方駅岡新町村、中嶌儀輔 扣、『宿村御用留日記、私用入交』、(文政拾三庚寅年正月より十二月迄)。この史料は行き倒れ病人や「
送り病人(病人を在所にリレー方式で戻す)」の記載が多く参考になる。(『枚方宿役人日記』清文堂史料叢書第63刊)
                  ・・・・・・・・・・・・・・

 さて、このように村の費用負担が多い面倒な旅人を、村や村人達が喜んで受け入れ対応しているのでしょうか。否、としか言いようがありません。厄介だが、渋々受け入れ対応しているに過ぎません。
 もとより、このようなセイフティネットは日本国中の村々で相互・双務主義として制度化しているものです。四国の旅人が大坂で助けられることもあれば、江戸からの旅人が四国で助けられることもあります。今日でも日本の自治体の行政展開はこの「相互主義」の原則を大前提にしており、自治体間で損得勘定に拘っていません。
 だから、制度としては立派なものですから反対は出来ませんね。自分の村から出た旅人がピンチになった時は、他郷で十分な援助を受けたいが、でも、「他国の旅人の世話はなるべくしたくない」というのが率直な感情です。
 ですから負担回避の感情や行動は非常に屈折したものになります。でも、ぼやきたくなることがあります。一度に何百人もの行き倒れが出たらどう思います?卒倒してしまいますよ。実際にあるのですよ、そんなことが。

 昭和60年8月、群馬県の御巣鷹山の尾根に日本航空のジャンボ機が激突したケースがそうなのです。もちろんこれは江戸時代の出来事ではありませんが、かつての「往来手形」の内容に見られたセイフティネットの慣習は,明治32年7月に「行旅病人及行旅死亡人取扱法」に継承され、成文法として施行され現在も継続しています。
 その結果、昔の庄屋さんの仕事を継承している地元の自治体の上に,言語に絶する悲惨な仕事が、天から降って来たという次第です。蛇足ですが、現在では、その費用は事案発生地の福祉事務所から府県に「負担金」の交付申請をし、歳入予算に計上されています。


「細井の松原無縁さんの碑」
大量の骨が出土したが、東海道で倒れた旅人を埋葬したもの。

   2、旅人と治安対策

 往来手形の最大の狙いは突き詰めれば「治安対策」でしょうね。「社会の安定」が目的、と言い替えるべきでしょうか、それこそがセイフティネットがもたらす最大の効果です。往来手形に拘らない「お蔭参り」、群集による伊勢神宮参詣旅行者への「施行」のケースでは、治安対策の要素が特に顕著です。旅人が泥棒や強盗になったり、社会に不安定要因をバラ撒いては困るからです。この要素は四国遍路のお接待でも否定できません。
 お蔭参りは慶安3年、宝永2年、明和8年、天保元年と、なぜかおよそ60年周期で爆発した庶民の群集乱舞行動で、毎回2〜3百万人も参加したそうです。奉公人は主人に無断で、妻は夫に無断で家を飛び出すのですが、着の身着のままで無線旅行に出ても、道中のお金持ち達は金品や宿泊の施行に努めました。道中では目立つように趣向を凝らした衣装で、歌い踊りながら熱狂的にエネルギーを発散したのです。封建的支配で溜まった「不満のガス抜き」だと説明されていますが、その通りでしょう。
(蛇足)
 江戸時代にとどまらず、戦時中迄は日本では金持ちが貧乏人に「施す」文化が根強く残っていました。だからこそ金持ちは威張る事が許され、貧乏人はお金持ちに対しペコペコ頭を下げるのです。それなりにバランスのとれた社会です。今でもインドや中東世界でこのような社会が残っているようです。中東でテロの資金源が永遠に途絶えない原因もこのような文化的土壌があるからです。

  3、旅する人と村人との関係

 通過して行く旅人と、通過される側の村人との関係は、外見上は相互に無関心であるかの如しです。実はこれが村人にとって最も理想的なのです。かつて見た西部劇に、こんなシーンがありました。士官学校を出たばかりの若い少尉が、インディアンがしばしば出没するという山中を通過しつつある時、「静かなものだ、インディアンなど居ないではないか」と言ったのに対し,老練な道案内人が、「相手の姿が見えない時は、逆に自分が相手側に見られているのだ」と教える場面がありました。そうです、通過される側はなるべく姿を見せないものなのです。通過者には注意を払い、監視を怠らないが、とにかく自分達の村からは一刻も早く出て行って欲しいのです。

 こんな実験を試みたことがあります。道を聞くべく、ある民家の入り口から大声で呼びかけたものの、返事が無いので金属製の柄杓をほうり上げ、大きな音を立てたことがあります。すると直ちにカーテンの向こう側で人影が動くのです。しかし、誰も出て来ませんでした。またある時、もっと大胆な、しかし下品な実験を試みたことがあります。谷間の集落でしたが、全く反応の無かった民家の入り口近くで、立小便をしてみたのです。すぐに家人が出てきて大目玉を食らいましたが、これは私の無作法なやり過ぎでした。

 さて、その昔の自治体の新米職員にとって、宿直勤務ほど嫌なものは無かったのです。夜間、閉庁時間中は首長代理に等しく、原則的には全部局の業務に対応しなければなりません。夜間、管内の電車の踏み切りで飛び込みがあり、警察から電話がかかってきて「身許不明の死体が」と聞かされたとたんに頭がくらくらしたものです。庄屋さん以来の仕事を福祉事務所が所管していますが、夜間は宿直勤務者が対応しなければなりません。
 マグロという業界用語が、実は人間の死体の肉片だという事も初めてしりました。翌日、飯が喉を通りません。何十年か後、御巣鷹山の地元自治体の職員が体験した凄さに思いを致した時、またまた飯が食えなくなりました。でもね、多分その隣の市町村役場の職員達は、自分達の村で起こらなかったことに、ホッとしているに違いありません、それが本音と言うものです。

 大阪の郊外を走る京阪電鉄の踏み切りの中に、門真市と守口市の境界線が走っている所が一箇所ありました。付近には松下電器労組の労働会館がありました。鉄軌道が未だ高架化していなかった頃の事です。ベテラン職員からこう教えられたものです。「この両市の境界線上に轢死体がまたがって横たわったら、どちらの市の担当となるか判るかね?よく憶えておけよ、ようするに死体の大部分がこちら側でも、首さえ向こう側なら守口市の担当になるんじゃあ」と。でも、気の弱い新米職員には、死体の重い首を移動させるだけの度胸はありません。後に、古文書を読みはじめた時、行き倒れの面倒をみる羽目になった庄屋さんの心中が手に取るように判りました。退職後、四国の村々を歩いた時、何処の集落も静まり返って人気が無いのに直面して、思わずにやにやしたものです。そうです、その昔の宿直体験を思い出したのです。
(蛇足1)
「死んだまま六部を置いて境論」(『誹風柳多留』十五篇)。
行き倒れたのはお遍路さんでなく六十六部に事例ですが、村役(年寄り衆)にとっては迷惑至極なのです。
(蛇足2)
江戸時代、持ち場の境目の川等に浮いていた水死体の場合は、頭の位置ではなく、足の位置の持ち場の方が引き受けて取り計らうのがルールでした(『異扱要覧』廿四)。

  4、親切な村人と不親切な村人

 お遍路経験者が書いたものの中では、ほとんどの人が四国の人のことを悪く言わないどころか、親切な側面を絶賛していますね。このことは基本的に正しいと思います。しかし、親切な側面だけが全てと言えるでしょうか。果たして、不親切な側面や嫌な思い出が、全く無かったのでしょうか。この世は人間の社会です、不愉快な思い出が少し位あったとしても不思議ではないはずです。重要なことは、親切な人も不親切な人も,決して別人ではなく、同一人物だということです。いかなる人間であれ,百%の聖人君子であるはずがありません。同一人物でも,100日の内99日間は上機嫌でも、一日位は不機嫌な時があっても不思議ではありません。この世に百%良い人も百%悪い人も居るはずがありません。皆その中間に居ますが,限りなく善人に近い人が圧倒的に多い中で、少し許りハズレた人も居ますが、その人でも100日の内、100日間全て大きくハズレている訳ではありません。

 日々の暮らしを立てるため、村人達は必死に働いているのです。それで精一杯です。旅人から迷惑を蒙るのは勘弁して欲しいのです。小事件でも起こって欲しくありません。とにかく、通過される側の村人が取るべき態度の原則は「無視」なのです。笑顔ではありません。
 それでも突然何百人もの身許不明の死体や怪我人が天から降り注ぐようなこと、ジャンボ機墜落事件のようなことさえ起こるのです。そうなると最早大事件です。村人達は寝食を忘れて、献身的に救護活動に従事するのです。セイフティネットとはそういうものです。

 セイフティネットがあるといえども、歩き遍路など旅人達は決して特権階級ではありません。それどころか迷惑な存在なのです。ましてやエリート意識を持つなど論外です。その持っていないはずのエリート意識が傷つくこともしばしばあります。 歩き遍路が静まり返った集落の中を通過しつつある時、その雰囲気をいささか訝しく思うこともあるでしょう。何故か人の気配が全く無いのです。「道を聞きたいだけなのに」と、ぼやきたくなる事もしばしばあります。
 しかし、それは旅人に異常が無いのを見届けた上での事なのです。もし、旅人に何らかの故障が認められ援護が必要な場合は,必ず救助の手が差し延べられるはずです。村々は決して不親切ではありません、いざという時には親切この上なき人々です。そして、これこそが日本社会の深層に横たわっている最も良質なセイフティネットなのです。

(蛇足)
  [往来手形・補足]  

 ここで蛇足を少々。先に「往来手形」のことに触れましたが、これと似て非なるものに「関所手形」(関所切手)があります。近世の関所は「出女・入鉄砲」を監視するため、幕府が設けた施設であり、ここを通過する際に必要な「特別許可証」のことです。私領では関所を公称できません。私領での関所類似施設は、主に経済目的のもので「口留番所」などと呼ばれていました。
 幕府設置の関所を通行するには,男は特に関所手形が無くとも「往来手形」の検閲だけで通行できます。しかし、女が通行する際の「女手形」を初め、「鉄砲手形」,その他「常態でない」ものが通行の場合も、例えば,囚人、手負い、死骸等は、男女の区別なく特定の「関所手形」を必要としました。また、武士身分であっても「常態でない場合」は、それぞれ所定の関所手形を必要としました。
 なお、往来手形を[通行手形」と呼ぶ人もありますが、これは関所手形と紛らわしく誤解を招きます。

 また、「往来手形」とは、いきなり「旅行許可証」と解釈するよりも、むしろ「強制労働の一時的解除」と理解すべきものです。江戸時代の農民は土地に縛りつけられており、年貢を納める義務は絶対的なもので、農業労働を怠ったり放棄することは許されません。本来的には、農耕を放棄して旅に出るなどと言う行為はとんでもない事です。このように一般的に禁止されている行為を、特別に解除するのですから「手形」が必要なのです。
 武士身分の者が手形を必要としないのは、農民のような縛りが無いからです。手形の発行権者は手形の受給者を支配する立場の者の権限に属します。
 農民に対する一般的禁止を一時的にせよ解除するには、それなりに正当な理由が必要です。物見遊山、観光レジャー目的では理由になりません。そこで「信仰・神社仏閣への巡礼」と言う場合に限って、一般的禁止が解除されるのです。とは言うものの、当時の巡礼はレジャーそのものでした。

 また、「捨往来」とか「捨切手」あるいは「遍路往来」と称しても,同じ「往来手形」のことです。「道中で行き倒れても、その村のしきたり通り処置してもよい」と言うような趣旨の文言が必ず入っています。
 なお、土佐への出入国管理は厳しく、東の「甲ノ浦」と西の「宿毛」に出入国を限定していて、入国者には「添手形」を与え、出国者から回収していました。これは往来手形を補完するものです。

◎「捨往来」の誤解

 往来(旅行)が使用目的の往来手形は1種類だけで、特別な変種は無い。この普通の往来手形を「捨往来」と呼ぶと誤解を招き易い。決して「棄民手形」のようなものがあるわけではない。往来手形が「身元証明書」である限り、ある人物について複数の身許があり得ないので、法理的・原理的には1種類の手形しかあり得ない。しかし、「身許証明書」そのものは用途・目的によって複数存在している。たとえば「稼往来」であるが、大坂三郷以外の土地へ妻子と共に出稼ぎに行く場合に発給されている身許証明書もある。
 「捨往来」と呼ばれるのは、往来手形の中で「どこの土地で病死しても、その土地の慣例に従い死体を処置し、別に通達しなくても良い」という文言が入っているせいだが、この文言自体は事務処理的なもので「身元証明書」としての本質規定ではなく、身許を毀損・変更している訳では無い。
 天保14年3月、幕府は「人別改めの制」を布令した。大坂三郷では閏9月に本令を発布し併せて取締りの細則をも定めた。その中では、廻国六部巡礼等に出る場合に菩提寺が出す往来手形には、今後は@廻国の年限を定め、また、A死去の節は「必ず通達ありたき」旨を明記し、町役人が連印する際にはその内容をB人別帳に記入し、「人別帳の加除を厳密にする」ように事務処理の改善を実施している。
 この結果、大坂三郷の人口が天保13年には35万人余であったが、天保14年10月の調査では33万2千余人のまで人口が急減している。
 以上の記述の後半は、大正3年8月31日発行の『大阪市史第二』(545頁〜547頁)、及び『大阪市史第四下』(1702頁〜1703頁)から要約した。
 なお、六部に出た場合、その頭陀行脚は過酷なもので、数里歩いても一紙半銭にもならないことがあり、行き倒れが極めて高率なのは、先の事例、大坂三郷の人別帳の加除を厳格に実行した結果の数字にもかなりの程度反映している。しかし、このように往来手形が片道切符のような印象であっても、「身元証明書」としての往来手形を誤解してはならない。国許からの放出・追放手形ではない。

  5、危機管理論への批判

 最後に、この小論は多くの危機管理論への批判でもあります。阪神大震災以後、日本の危機管理論に関する著作が多く出版されています。しかし、そこでは日本の長い歴史を通じて,最も奥深い所に脈々と流れてきたセイフティネットの伝統についての論考が、極めて不充分なのです。
 危機管理で最も大切なのは、住民・被災者の秩序意識がしっかりしていることなのです。行政の任務はそれを確保するのが至上命題なのです。
 そして、そのシステムの根源・根底にある「行旅病人及行旅死亡人取扱法」と、その歴史的背景(往来手形)への考察は、現代的課題としてのセイフティネットとは関係が大ありです。安心して死ねることの重要性は最も根源的なものです。 

 皮相な見解の代表例には、例えば上智大学のグレゴリー・クラーク教授の、「日本人は危機意識が薄い、初期消火を徹底するより、避難所の準備に精を出す日本の当局には危機というものが分っていない」(平成7、2、23朝日・大阪本社13版9面)というような見解があります。全く逆なのです、判かっていないのはクラーク教授の方なのです。実は、避難所の準備がしっかりしていることにこそ、日本のセイフティネットの長所・強み・伝統があるのです。
 災害時における最大の課題は、被災者の秩序意識が揺るがないようにすることなのです。日本の被災者の秩序意識が乱れないのは,避難所のネットが速やかに機能しているからなのです。避難所から伸びている秩序のレールに乗っかると安心感が得られます。それは江戸時代の「お救い小屋」以来の伝統なのです。

 外人さんには西欧の技術至上主義的「救援」観を日本人が理解しないのは、愚鈍でバカに見えて仕方ないのでしょう。自然を克服する技術的な努力不足に対して、「何故、手をこまねいているだけなのか」と。しかし日本人は、そのような西欧文化を理解しつつも、東洋的な「悟り」観の重要性を高く評価しているのです。「悟り」とか「達観」の概念は、あきらめの概念と同義ではありません、深い理解と洞察を踏まえた上での視点なのです。長い歴史に鍛え抜かれた到達点なのです。
 筆者の若い頃、企画係長時代に災害対策本部の事務局を担当し、また、地域防災計画の策定事務に従事したことがあります。そこでは対策本部への職員の速やかな動員体制と共に、被害調査とか避難所の設営に職員を配置することに重点を置いていました。

 最近の具体例を見ても、例えば阪神大震災の時のような大火では、「破壊消防」以外に対処方法はありません。1〜2軒程度の家屋なら何台もの消防車から水をぶっ掛ける方法も有効でしょう。しかし、あれ程の大規模火災では、延焼を防ぐ努力以外に有効な対処方法はありません。水をぶっかけて、むなしくあがいてみても有効ではありません。
 事実、江戸時代の火災では、破壊消防が唯一有効な対処方法でした。でも、江戸時代ならともかく、今日においては「破壊消防」は全く実行不可能な観念上の遊戯でしかありません。そんなことをしたら市役所は絶好のカモになります。マスコミや弁護士の餌食になります。百%の確率で損害補償裁判に負け、個別ケースでは殺人罪にも問われるでしょう。

 一方、西欧文化では水をぶっ掛ける技術の工夫向上にのみ関心が集中するのです。とにかく、科学技術の重要性を否定はしませんが、科学の至上主義にも限界があるのです。
 そうです、むなしくあがくよりも「お救い小屋・避難所」への秩序ある誘導の方が大切なのです。少なくとも日本では、近世以来、災害時に被災者の秩序意識が強固で、略奪など社会的混乱が起っていないという歴史は、高く評価されるべきものです。世界中でこれだけ安定した国家は、どれ程あるのでしょうか。

 蛇足ながら、享和二年(1802)淀川堤決壊による大洪水の際には、避難者は在所の村単位にまとめて収容されており、「お救い小屋」の入り口には、その村名が掲示してあったのです。(校本・絵本『榎並八箇洪水記』・大阪府立中之島図書館所蔵)。江戸時代でも、少なくとも応急の衣食住への手当てのプログラムがあり、次の展望が開けました。
 現代でも避難所に続く一連のプログラムが開始することへの信頼があるので、略奪騒ぎなど起こりません。日本はその意味で成熟した社会です。いくら科学技術や文明社会を誇ってみても、略奪騒ぎが起こるような社会は、歴史の重みを欠いた未熟な社会といえます。被災時の避難所準備は「悟り」文化の優れた産物であり、「往来手形」と、その精神を継承した「行路病人及行路死亡人取扱法」もそれと同根の文化です。

II、四国遍路とは

◎昔の旅行ブーム

 今、何処の本屋さんに行っても書棚には旅行関係のガイドブックが多く並んでいますが、わが国における最初の本格的・実践的な旅行ガイドブック(刊行物)は、貞享四年(1687)発刊の『四国邊路道指南』だったようです。旅行の利便性に徹底した内容でした。著者真念は大坂出身のフリーターで版元も大坂でした。
  日本文化には古くから「手引書文化」とも言うべき伝統が広く根強く存在していました。例えば、お公家さんの家に残された史料の中には儀式への参加の仕方等々のマニュアル関係史料(非出版物)がやたらに多く出て来ます。これは、やがては現代の「××提要」とか「××必携」等々のガイドブックの出版文化につながっていく文化的土壌です。
 大量生産のガイドブック出版が着眼したテーマは、室町末期以来の「節用集」(国語辞典)でしたが、やがて江戸時代に入ってからは、地域解説的・観光案内的な地誌関係の出版が盛んになり、ついに旅行へ焦点が絞られて来ました。大衆普及を狙ったこのビジネスモデルは優れた着眼でした。江戸時代のマニュアル出版物は、手紙の書き方見本から暦、生活百科的なものに至るまで、庶民の中にも広く普及していますが、旅行をテーマにした貞享四年発刊のガイドブックはその先駆です。いつの世でも出版界では「旅行」がモテモテなのですね。
 なお、江戸時代の安永から文政にかけて活躍した秋里籬嶋の旅行ガイドブック(『××名所図会』等)では、はるかにビジュアルな出版物に進化していますが、旅行の擬似体験・イメージ遊泳旅行を狙っており、読み物・文芸作品に近いものです。実際に旅行に出かけた際の歩行・宿泊等の利便性には物足りません。続く時代の文化・文政から幕末期にかけて活躍した暁鐘成(『澱川両岸一覧』等)の旅行ガイドブックでも絵が主体でしたが、同じコンセプトです。
 さて、近世の農民は土地に縛り付けられており、レジャーは悪徳、旅行はダメと言う価値観の時代です。年貢の生産に励むべしだったのです。しかし、レジャー旅行はダメでも神社仏閣への参詣旅行はOKでした。
 さてさて、貞享五年九月には元禄と改元されます。庶民の懐具合が良くなったと言われる時代の到来です。そこへタイミング良く旅行ガイドブックが入手可能となりました。袖珍本サイズで、宿泊所情報が豊富な内容でした。真念の『
四国邊路道指南』です。
 
(蛇 足)
 『四国邊路道指南』が「歩行・宿泊情報を重視した最初の本格的な旅行ガイドブックではないか」という最大の理由は、書名中の「道指南」という自己規定、自己認識です。本の内容もそれ以前に出版された各種の地誌類や名所案内とは異質のものだからです。逆に言えば、むしろ「地誌性」が不充分なので、この本を「地誌」に分類するには躊躇せざるを得ません。
 『京都叢書』各巻に収載されている『京童』(明暦4年・1658年刊)や『京雀』(寛文5年・1665年)、『雍州府志』(貞享3年・1686年)等々。及びその他の諸書では、『吉野山独案内』(寛文11年・1671年)、『有馬私雨』(寛文12年・1672年)、『山城四季物語』(延宝2年・1674年)、『難波名所・葦分船』(延宝3年・1675年)、『難波雀』(延宝7年・1679年)等々の地誌関係の出版物がありますが、そこでは名所旧跡の案内や解説、寺社の縁起由緒の紹介に重点があり、観光案内に有益ではあるが、『四国邊路道指南』のように本格的な旅行の手引き書の域には達していません。また、江戸の地誌で先発発刊されたものに、寛永20年・1643年刊行の『志きをんろん』(『色音論』)等がありますが、これとて本格的な旅行ガイドブックとは言えません。
 唯一、旅行ガイドブックとして先行しているらしいのは、万治元年・1658年に発刊されたらしい『東海道名所記』(浅井了意・撰)でしょうか。しかし、これでさえ紀行文というよりも滑稽文であり、「風俗志」の一種という論評もあります。旅行の際に携帯利用する歩行・宿泊情報を重視した実務的利便性に焦点を絞ったコンセプトとは言い切れません。

(蛇足2)

試案 遍路の意味or 遍路の語源)

宇多法皇が熊野に行幸したのが延喜7年(907年)、その後、花山法皇が熊野参詣に行幸したのが正暦3年であるが、熊野参詣がブームになったのは白河上皇の頃からで、彼は寛治4年(1090年)以来9回も熊野に行幸した。この参詣は目的地をそのまま表現して「熊野詣」と呼ばれているが、ネーミングには特別な工夫は無い。

また、「西国三十三観音巡礼」とか「四国八十八ケ所順拝」という場合も巡拝先をそのまま表現した名称だが、順拝先を限定した側面がある。

一方、中世以来盛んになった「六十六部」の場合はその略称「廻国」という呼び方も含めて、遍歴行脚の行為を指したネーミングといえるが、「遍路」の場合はエリアの宗教的意義を強調したネーミングになっている。

遍路と似通った言葉に「邊路」や「邊地」があるが、邊路とは「片田舎の路」という意味で邊地と同義である。例えば平安末期の後白河院撰の歌謡集『梁塵秘抄』では「四国の邊地をぞ」とか、それに続く時期の『保元物語(下、巻末)』では西行法師が「四国邊路を巡見し」というような使い方をしている。

また、中世での親鸞聖人の消息集『末燈鈔』では「邊地の往生」という使い方をしているが、ここでの邊地は「極楽の片ほとり(邊)」という意味である。これらの意味を混合したような形で「極楽の片ほとり(邊)の路(みち)」というような思いを込めて、四国エリアに宗教的意義の付加価値をつけたのが「遍路」ではないかというのが私の解釈である。 

 ◎歩き遍路の効果

 頭の体操といえば「頭を使う事」だと思っている皆さん、それは大間違いです。実は足を使うことこそが「頭の体操」になるのです。「歩くこと」と言い替えても良いのです。
 また、体操のTV番組でよく出て来るセリフに「普段使わない筋肉を使いましょう」という表現がありますが、普段全く使っていない精神とか神経を使うには、歩くことで足を刺激しなければなりません。いかに頭を強く刺激したところで、「頭の体操」にはなりません。遍路の効用は、そんなところにもあります。このような話題を少し掘り下げてみませんか。 
   夕暮れて か細き放屁 老遍路 

◎癒しのアミューズメン

 行(ぎょう)をアミューズメント視するのはけしからん、と怒られそうですが、遍路を通じての自己達成も広い意味でのアミューズメントではないでしょうか。人生回顧、謝罪、再出発、リフレッシュ等々「癒しの市場」としての開発展望には大きな可能性があります。人生の各段階で悩んだり傷つくのが人間です、この需要に対応した商品開発は真念法師の時代から始まったといって過言ではない。やがて癒しの市場として商品形成される過程で、秀逸ともいえる領域分節のネーミングが定着した。多くのプロ先達の多様な活躍過程で、何時しか四国地域が発心の道場(徳島)、修行の道場(高知)、菩提の道場(愛媛)、涅槃の道場(香川)と呼ばれるようになったのがそうである。

 遍路に出る動機は各自様々で、概ね謝罪、謝恩、供養、脱出(病気、愛憎)、再生等々だが、現代的需要構成に対応した商品開発の模索は不十分であり今後の課題だ。滞在型の施設でも現代的消費変動に対応した工夫が欲しい。失恋道場、ダイエット遍路、ウツの家等々、いくらでもあるはずだ。しかし、四県それぞれの地域特性(発心、修行、菩提、涅槃)に応じて違いはあるだろう。大昔からのお遍路さんの累積感情こそが四国の最大の資産だが、他府県の同類コースの及ぶところではない。

 差し当たり「職員研修遍路」の拡大は容易に可能だろう、企業の人事部へ働きかけてはどうかな。社員・家族の慰安・娯楽施設の多くが無くなりつつあるが、お寺さんが企業の研修施設を設けてはどうかな。高野山・金剛峰寺での「阿字観」瞑想教室は初心者にも好評だから、これを土佐道場(仮称)で実施しては如何がかな。
  
     

  1、歩き遍路する人々のタイプ   

(1)通過儀礼型(人生の節目・生まれ変わり願望型、洗浄・再生復活、ルネッサンス型)

  ◎ 定年退職者
 元の職業は様々で、銀行員、教員、警察官、地方公務員、会社役員、商社々員、百貨店社員、料理人、パイロット、薬剤師、等々多彩で偏りが無いが、全て男性でホワイトカラーがほとんど。たぶん高学歴だと推定されるが、現役時代の仕事は聞けても学歴までは聞けない。共通しているのはこだわり人間で計画性が高く几帳面で真面目、逆に大雑把でハッタリが多い親分タイプ・市会議員タイプのお遍路には、全くお目にかかれなかった。

  ◎ リストラされたサラリーマン
 定年まであと4〜5年というような、しかも元の地位がかなり高いサラリーマンが意外に多い。かくも礼儀正しく行き届いた人材を失った会社は大損しているよ、と思わざるを得ない。年金の満額受給年齢まであと数年かかるのが共通した悩みで、ちょっぴりぼやくのが特徴。
 また、人生のやり直しが効く中年男性にも若干お目にかかったが、クビになったにしては意外に明るいタイプだった。これ、内心の不安を押し込んで明るく振舞っているのだろうかね。

  ◎ 廃業した自営業者(元水商売の女性等)
 店を閉めたママさんなど、元水商売の女性が意外に多い。だがそれら女性の年齢にはかなり幅があった。歩き遍路の女性で、本人は何も言わず、顔や姿では全く判らない。しかし、道端で休憩した時のタバコの吸い方や足の組み方でそれと判ってしまう。お遍路さんには各々独特な個性と雰囲気があるものだが、「過去を捨てて生まれ代わりたい」という強い執念を発信しつつ歩いているかのように感じるのが不思議。
 また、食堂、時計屋、呉服店、薬局を閉めたという年配のオジサンも少し居られました。でもこの私、他人の経歴を聞きそびれる方がはるかに多く、会話がヘタクソで失敗ばかり。

(2)リフレッシュ型(休暇利用の短期間区切り打ち)

  ◎ 現役サラリーマンの垢落し・充電型(研究熱心型。行儀の悪過ぎる人が若干紛れ込むので迷惑)
 とにかく研究熱心だ。休暇を利用して来るので区切り打ちの短期型が多いが、おそらく職場ではバリバリのやり手社員と見受ける。頭の回転が極めて速く、機転、応用、変化に強い。私のようなのろまとは正反対で敏捷、歩き遍路の適性度は最高点に近いが、信仰度は極めて低い。また、人数的にも多いのが特徴。

  ◎ 家庭の主婦(信仰熱心型、長期留守が不可能)「パートで旅費を貯金し、また秋に戻って来ます」
 もし、お大師さんが信仰の度合いを尺度に採点なされば、この層が最高得点を取るに違いない。とにかく信仰熱心である。信仰度を重視して真のお遍路さんを狭義に解釈すれば、お遍路さんと呼べるのは、この家庭の主婦層だけかも知れない。難点が一つある、亭主殿を長く独りに出来ないのだ、短期の区切り打ちにならざるを得ない。主婦遍路が泊まるお宿には亭主殿から頻繁に長距離電話がかかってくる。曰く「梅干が無くなった、大きな壷はどこにおいてあるのか」、「着替えのシャツ、あのシャツや、そのシャツとは違うわい、あれやがなあれ」という類の電話である。電話を終えた主婦遍路の複雑な含み笑いの表情をどう解釈すればよいのだろう。また、人数的にも非常に多い

(3)高群逸枝型(自分さがしの悩める若者

  後に女性史の研究業績を残した彼女が、二十歳代半ばの大正中期に遍路に出掛けたのが嚆矢。大正中期の24〜5歳は大年増だが、何故か「娘遍路」と称される。現代の悩める青年も30歳前後が結構多いが、昔なら中年かもね。しかし、この中には無銭旅行目的の傲慢無礼な若者が紛れ込んでくるので迷惑。ここ5〜6年、このタイプのお遍路さんが激増している。           

(4)お接待期待型(四国の人々が敬遠するお遍路さん)

  渡世の遍路、今後はこのタイプのお遍路さんの増加が予想される。江戸時代から終戦後に至るまで迄、このタイプのお遍路さんが目立っていたが、今や本格的に復活して来つつある。

(5)逃 散 型

 
 上記(3)と(4)の混合変形型。現代の「逃散」現象。地頭の可斂誅求は江戸時代だけの話にとどまらず、現代でも大流行しています。私の若い頃はデモや組合運動等積極的反抗に出ましたが、今の若い人は脱走を強要され「逃散」に追い込まれているようです。その心の荒廃が善根宿の荒廃に直結しているようです。彼らの行儀の悪さを非難しているだけでは片方落ちのようです。とにかく、四国では多くの先行現象が伏流している感があります。

(6)自殺願望型

 近年も四国を死に場所に選んだお遍路さんの事例が2件あった。言うなれば自殺願望遍路ですが、焼山寺手前の左右内集落では、前夜Yさん宅で泊まった不治の病らしい男性が、遍路道に架る小さな橋で首吊り自殺しています。もう1件は柳水庵の付近だったと聞く。かなり以前、歌舞伎役者市川団蔵は帰路の船からの身投げでしたが、このタイプは最も古典的なお遍路像ですね。決して好ましくも望ましくもありませんが、死に場所の確保が人間の最も根源的な願望でありセイフティネットでもあるから、今後シルバーの中からの増加が予想される。
 自殺でなくとも、心やすらかに死を迎える為にベタベタとハンコを貰う等、死が伏線のテ−マではないでしょうか。

(蛇足)

  戦前のお遍路では、若者が大人になるときの前進型・通過儀礼も多かったようですが(『権現町誌』現;松山市)、現代はシルバーが、再生前進型・通過儀礼を経験する時代に変わっているようです。後退型の通過儀礼でないところが良いですね。
 なお、前田卓著『巡礼の社会学』には、西国三十三カ所巡礼についてではあるが、「現在でも巡礼することが結婚の条件とされる物集女の青年団」として、昭和42年撮影の写真を紹介している。(その上段に掲出された50年前の物集女村若衆組の西国巡礼団の写真との対比で紹介されています。)

 また、企業による従業員研修に活用されているケースがあります。魚料理の「銀平」で、和歌山市に本店(0734−32−3087)を置き大阪の北や南にも出店しています。研修の社員は30万円を支給されてお遍路に出る。最終段階の高松迄到達すると、社長の面接がある。なお、お遍路から戻った社員は素晴らしい雰囲気を持っていて、職場の空気を大きく好転させるという。平成9年7月29日、雲辺寺の麓、岡田民宿でそんな若者のお遍路さんに出会った。やはりクリーニング効果は大きい。

  〔疑問を残すお遍路さん〕

  (ライター、研究者等

 調査目的や情報収集等が主目的の動機不純な連中も、お遍路さんの中にかなり多く紛れ込んでいる。かく言う私もその一人です。もとより悪人ではありません。この連中の最大の特徴は他人から情報を収奪しても、自分の持っている情報は固くしまい込んでいます。同宿し話をしていても面白味が無く、不愉快な人種です。どちらかといえば区分打ちが多いようです。私としては極力情報開示に努め、軽薄なおしゃべり男になっているつもりですがね。

   (b)無銭旅行の若者

 お遍路さんになるとタダで旅行出来ると思っているような連中が居る。四国の人々にも他のお遍路さんにとっても迷惑な連中です。札所でも礼拝などせずに通夜堂の所在にだけ関心がある。お接待を当たり前と思うばかりか、強要するような傲慢無礼の事例も伝え聞く。
 これにはマスコミにも責任がある。歩き遍路は苦しいが尊い行為であるとか、大切にされるとかの側面を、過剰に宣伝し過ぎた弊害です。歩き遍路をエリート視した時代は最早過去のものです。
 善根宿とは色々な面で不足不自由が目立ち、歩き旅に支障が多かった過去の時代に、緊急避難場所として善意と好意に支えられたものです。そこでは「往来手形」以来の伝統が濃厚に残っています。しかし、無銭旅行だけが目的の連中に緊急救助の必要性はない。

  2、四国遍路の概略

近場&僻地
 「近場と僻地」この二つの概念は本来的には相反するものである。しかし、四国ではこの両概念が矛盾なく共存している。四国は九州・中国・近畿という扇状広域圏のお隣さんであり、この広域圏の「扇の要」に位置している。この地理的長所は四国のアイデンティティの存立基盤、下部構造となっており、「癒し機能」の最適環境であり、「癒しのアミューズメント」が可能な圏域として他に抜きん出ている。 
 さて、国土総合開発法に基づき策定されてきた全国総合開発計画は、今や「脱・全総」の時代を迎えたが、この全総の最大の功績は夫々の圏域にアイデンティティを再確認させた点にある。末端の自治体に至るまで「私は何者か」、を真剣に考えさせたところにある。
 全総にあった機能分担・地域分業の提言は重要だ。食料生産基地の東北、中枢管理機能集積の東京、伝統文化の京都・奈良、「癒しの四国」、という視点があっても良いではないか。多極分散と称して、どの圏域も高度な都市集積を望めるものではない
 四国の場合は全総に平行して四国地方開発促進法(S35年制定)による計画もあるので圏域の自己確認課題は早くから重視されて来ただろう。しかし、現時点でも自己再確認が求められている。常に自己に対して問いを発し、自己を再定義し続けねばならないのがこの世のならいだ。

 他の圏域が真似したくても出来ないような四国ならではの独自魅力が何かといえば、それは遍路文化であり「癒しのアミューズメント」が可能なことであろう。お遍路さんの累積感情こそが四国の最大の資源である。ハードなものばかりが資源では無い、ソフトな資源もある。また、美しい自然というだけでは他の圏域にも数多い、ソフトな癒し機能というだけでも類例は多い。しかし、四国遍路の癒し機能は長い歴史を通じて積分された深い魅力であり、その力量は比類なく大きい。
 
 環境問題で重視される概念に「物質収支」の視点があるが、人間のストレス制御においても「精神収支」「感情収支」の視点が不可欠である。人間は癒しによるバランスの回復なくしては生きて行けない。

 お遍路という行(ぎょう)をアミューズメント視するのはけしからん、と怒られそうだが、遍路を通じての自己達成も広い意味でのアミューズメントではなかろうか。山中を歩いている時など、昔のことを思い出して「ああ、悪かった」と、突然泣き出してしまうことがある。そうなると全くブレーキがかからないが、このように何の遠慮もなく泣ける有難さはお遍路ならではの癒しであり、一種のアミューズメントではなかろうか。
 
 人生はストレスの中を生き抜かざるを得ない。また、その各段階で悩み傷つくのが人間である。だから、人生回顧、贖罪、謝恩、供養、自己再生、充電、リフレッシュ等々は人間生活の一時期には不可欠である。家族に恵まれ経済的にも恵まれた教養人であっても、定年退職後に人生のまとめに取りかかった時、何故かお遍路に出かけたくなるらしい。私がお遍路で出会い同宿した会社役員、パイロット、外国生活の長かった商社員、自営業者、警察官、教員、公務員等々にとってのお遍路はそれぞれの人生における不可欠の通過儀礼になっていた。

明治の頃も、隠居したらしい大阪船場の商人が金を出し、中務茂兵衛が建立した道標は四国各地に数多い。それらを見ると、このご隠居さんらしき人物、かなりえげつない商売をして来たので、心のゴミ捨て場を求めてお遍路になったのと違うかなと憶測している。遍路に出た動機には贖罪意識もあったはずだ。
 
 さて、四国で「癒しの市場」の模索は始まっているのだろうか、失恋道場、ダイエット遍路、ウツの家等々では方向予知の名に値しない。真に現代的な精神的消費変動に対応した工夫が欲しい。この場合、四県それぞれの地域特性に応じて違いがあって当然だろう。
 この精神的消費需要に対応した商品開発は真念法師の時代から始まったといって過言ではない。癒しの市場として商品形成される過程で、秀逸ともいえる領域分節のネーミングが定着している。多くのプロ先達の多様な活躍過程で、いつしか四国地域が発心の道場(徳島)、修行の道場(高知)、菩提の道場(愛媛)、涅槃の道場(香川)と呼ばれるようになったのがそうである。市場展望の入り口概念になっている。   蛇足ながら、高野山・金剛峰寺での「阿字観」瞑想教室は初心者にも好評だから、これを「土佐道場(仮称)」でも実施してもらいたい。真言宗の座禅ともいうべきこれらの瞑想法(阿字観、月輪観)は禅宗に比べてあまり一般に知られていない。座禅は外人さんにも好評ではないか。

 (1)遍路の目的   

 そもそも四国遍路はどういう目的の為にあるのか、という問いには、最も根源的なセイフティネットの提供にあり、端的に言えば「死に場所の提供にあり」と答えたいのです。それは人間の心の底の底、最も奥深い所にある願いに応えるものです。
 その証拠がいっぱいあります。遍路道は死屍累々たる有様です。即ち、行き倒れたお遍路さんの墓があまりにも目立ちます。当初、私は「志し半ばで行き倒れた気の毒なお遍路さん」と見ていたのですが、やがて「行き倒れこそが目的なのだ」と気付きました。
 今の時代、セイフティネットといえば、失業保険とか生活保護制度を思い浮かべますが、それは表面の見易い部分のネットです。頼るべきものが何も無く、絶望に打ちひしがれた人々にとって、「お大師さんの足許で死にたい」のが最期の願いであり、究極の目的なのです。
 そして、「死に場所の確保」という究極の目的のかなり手前に位置しているのが、先に述べた「通過儀礼」「リフレッシュ」「自分探し」等々です。
(行き倒れ)
 行き倒れとは身元不明死体の場合で引き取り手が無い場合、と厳格に狭く解釈しないで下さい。身元が判明していて、しかも墓石の建立にはかなりの経費が必要で、そのような経費支出が可能な裕福なケースであっても、在所で葬られておらず、遍路道に面して
墓が建立されている事実は体制離脱者の証明と解釈出来ないでしょうか。広義の概念で行き倒れをご理解下さい。

 (2)遍路の魅力

 歩き遍路の最大の魅力はタイムトンネル効果を体験できることです。大げさに言えば昔の文化を追体験できるのです。白衣を着て輪袈裟を掛け、菅笠を冠り杖を手にして四国の土地に立つと、江戸時代にワープできるのです。お遍路空間は非日常的な別世界といえます。

 (3)非エリート主義・自由参加主義

 同じ「」でもお四国さんの特徴には、大衆性・庶民性、開放性、等があります。非エリート主義だから女性や老人、病人の参加も多いのです。これに対し「修験道の」は、男性的・閉鎖的で「鍛える要素」が濃厚で、エリート主義だといえます。
 スゴイ話を宿毛市の岡本旅館(0880−63−3161)の女将さんから聞きました。『ある日の朝、「今、延光寺(39、寺山)に居ますが、今晩のお宿をお願いします」という、予約が入ってきたのです。それを聞いた私の主人が「何や、ひやかしやな、延光寺からここ迄7キロも無いのに」と言い、私もそう思っていました。ところが夕方になってそのお方が実際にやって来られたので驚きましたよ。ご夫婦連れで、ご主人の方が少し年下のようでしたが、奥様のお姿を見て納得出来ました。明らかにご病気で苦しんで居られるのです。ガンか何かでしょうかね、1日かかって10キロ未満の歩きですからね』と言うお話でした。
 以前、土佐の国分寺で80代のご主人と70代後半のご夫婦から、「1日当たり15〜20キロですが、歩きに拘っています」と聞いたことがあったが、それよりはるかに短い距離でした。それでも「歩き」に拘って居られるのですから、「行」としての要素が否定出来ませんが、ご本人としては「お大師さんの懐に抱かれて死にたい」というのが本音でしょうか。このような人でも参加出来る四国遍路の非エリート主義は大切にしたいものですね。

 (4)お接待の意味(善根宿の全国的習慣)
 
 「私はたまたま幸運に恵まれたが、貴方は気の毒にも不幸に見舞われた。貴方は私の代わりに不幸を引き受けてくれている、すまない。私だっていつ何時不幸に陥るかも知れません」・・・この気持ちがお接待の底流にあります。
 江戸時代どころか終戦後迄は旅人を助ける習慣は全国的にあった。特に行路病人や行路死亡人への救助対応は相互主義のシステムとして全国的に確立していた。それが「往来手形」の意義でもあった。また、このような風土基盤があったので、ホームレスが門付け物乞いをしながら諸国を巡礼廻国することを可能にした。
 江戸時代のホームレスは様々な形で物乞いをしながら(遊芸渡世や巡礼渡世)全国各地を旅したが、特に冬季は温暖な土地(四国も温暖ですね)へ移動していたようです。四国には六十六部の行き倒れの墓や、廻国供養塔が他の圏域よりやたらに多い印象を受ける。 
 
 また、このような巡礼者をお接待した
善根宿の痕跡が、四国に限らず今も各地に残っています。
 大阪府寝屋川市の
東高野街道筋(寝屋川市国守町の正縁寺共同墓地)には「宝暦八寅年霜月」、「六十六部一千人一宿報謝所願成就」の石碑(高さ114cm、幅23.7cm、奥行19.5cm)が残っています。
 和歌山県田辺市鮎川(旧大塔村)の
熊野古道筋にも、「明治十一年寅二月十五日」、「偏路・施宿、千人供養塔」(高さ;85cm)と刻まれた石碑が残っている。尚、偏路の「偏」の字 は人偏でなく行人偏の「へん」です。
 

(紀州、大塔村鮎川、高さ;85cm)

  (紀州、大塔村鮎川)


(寝屋川市国守町、正縁寺共同墓地「宝暦八寅年霜月」)

(正縁寺共同墓地、高114.0cm,幅23.7cm,奥行19.5cm)

(正縁寺共同墓地、「六十六部一千人一宿報謝所願成就」)

 さて、大阪付近で「おせたはん」と呼ばれ、チョッピリ蔑まれた人々は、西国三十三観音巡礼に出た者の内、物乞いをしながら巡礼していたホームレスに近い人々のことです。大きな荷物を背負っていたせいでしょうか、上方では「背負う」ことを「せたらう」と訛り、また、「何々さん」と呼ぶのを「何々はん」と、くだけた調子で訛るので「おせたはん」と呼んだ可能性があります。あるいは、お接待さん→お接待はん→おせたはん、と関西風に訛ったのでしょうか。私が西国三十三観音を巡礼していた際、奈良の当麻町の老婆から「私がここに嫁に来た頃のこと(戦後のこと)」と話てくれた中には夫婦者の「おせたはん」に善根宿をし飯を食わせた話がありました。但しこの夫婦はホームレスではなかったようです。
 私の住んでいる北河内では弘法井戸の現存も数箇所あり、特に東高野街道筋の祠には弘法大師像を多く見受けます。大師講の残存も珍しくありません。戦後も講の日(21日)には道行く人々におにぎりを配っていた話が語られています。正縁寺共同墓地の千人宿の石碑はお接待文化の頂点遺産です。
 温暖な気候のせいでしょうか、四国では歩き旅が今日迄長く残りました。四国では、相互救助主義に宗教的な意味も加算されて「遍路へのお接待」が今も日常的的に見られる。この「往来手形」の伝統は、明治32年に「行旅病人及行旅死亡人取扱法」として継承された。
 厳密には現代でもお接待は四国だけのものではない。私自身が西国観音三十三ヶ所を一人で歩き巡礼して、お金でのお布施や各種のお接待を経験した。奥の細道を歩いた時の東北ではゴザに座れと招かれ、お菓子とお茶が出て話も弾んだ。美容院の傍らで休んでいた時、「お茶をどうぞ」と、お盆が差し出されたタイミングはかなり早かった。また、長崎への道の道中での岡山でのお接待も忘れられない。「歩いて長崎を目指すカトリックの巡礼ですわ」という私に対し、「お遍路さんやな、このブドウをどうぞ」とお接待して下さった御婦人は多分四国遍路の経験者に違いない、と想定される。
 この場合、「憐憫・施し・厄介払い・代償行為」の性格を無視してはなりません。お接待する側とされる側とでは、明確な上下関係にあることを自覚して、有り難く「施し」を受けるべきです。
 この世の不幸は、誰かが引き受けねばなりません。ひょっとしたら自分に降りかかったかも知れない不幸をこの巡礼さんが引き受けてくれている、「お気の毒に、この人は私の代わりに不幸になった人だ、すまない」という気持ちがあるからこそ、四国の老人はお遍路さんに対し両手を合わせて拝むのです。拝む行為には、尊敬の念と共に、敬遠・厄介払いの思いもチラリと見えます。ようするに治安対策の要素です。敬って遠ざけるとは、言い得て妙ですね。
 江戸時代、ほぼ60年周期で爆発した庶民のお蔭参り(伊勢神宮への集団参詣、抜け参り)での「施行」では、治安対策に大きな比重がありました。ようするに厄介払いです。妻は夫に、奉公人は主人に無断で飛び出し、道中ではハメをはずして歌い・踊り、目立つように衣装にも趣向を凝らし、日常のモラルを超えたものでした。社会不安を撒き散らされても困るし、加えて庶民の不平・不満をガス抜きする必要もあったので、「施行」は不可欠でした。四国遍路のお接待にもこの治安対策の要素が含まれています。
 四国以外の地域でも終戦後の時代迄は、かなりの貧乏人が、巡礼や乞食さん・門付け芸人等々には少し許かりの「施し、お接待」をして来たのが日本の伝統文化なのです。施す側には、ある種の差別意識がありますが、だからこそその謝罪行為として施しがあった、と言っても過言では無いでしょう。でも、自分は貴方のように不幸にはなりたくない、巡礼である貴方はその不幸を背負った気の毒な人だ、お詫びの気持ちです、拝みます、おとなしく、災いをもたらすことなく、この施しを受け取り立ち去って下さい。そのような構図と言えます。


「奉納大乗妙典六十六部供養佛」大阪市西区北堀江、和光寺


和田峠施行所」
長野県小県郡、旧・和田村(現;長和町)、和田峠付近。小字名「接待」。


「接待湧水」(上記、和田峠施行所の前)


旧和田村設置の説明版


碓氷峠。  「人馬施行所跡」(群馬県碓氷郡松井田町)

 ◎広義のお接待

                 
橋供養塔(個人の架橋)

 中山道、さいたま市宮原町3−226


東海道、名古屋市南区呼続


住宅会社による、トイレ、飲み物の接待
静岡県藤枝市


接待茶屋跡、静岡県三島市


接待茶屋跡、神奈川県足柄下郡箱根町

  (6)遍路の効用 

 知人・友人から「お遍路の効用」の説明を求められ、返事に困ることがしばしばあります。歩きの刺激は、人間の深層部にある潜在意識に作用するものだから、言語表現が不可能なのです。認識出来ないからこそ潜在意識なのです。認識可能ならば顕在意識となり、明晰な言語表現も可能です。
 お遍路に出掛けてみて初めて気付くのですが、平素の自分は歪んだ環境の中に置かれているのだな、ということです。まともでない環境で、まともでない人間になっている事に気付きます。
 まともになるのは、頭がまともになるのではなく、足がまともになるからのようです。そもそもまともな頭なるものは絶対にあり得ません。頭イコール歪んだものなのです。若者に多い頭でっかちの弊害例がその証拠です。若者はこの頭に頼って生きようとしますが、老人はその間違いに気付いています。歩くことで異常がいくらか矯正されますが、お遍路を終えて自宅に帰りしばらくすると、元の木阿弥です。又々まともでない歪んだ人間に戻るのです。又々、頭に頼って生きてしまうのです。となると、再度お遍路に出掛ける以外に矯正方法がないのです。つまり、死ぬまでしんどい目して歩く外ないのです。

 (7)四国遍路の将来展望

 「歴史は繰り返す」というコトバは古臭く、時代遅れですね。むしろ「歴史は後退する」という方がナウイですね。現に国際情勢がそうですからね。さて、四国遍路も昔に後戻りするように思えます。四国の人々から嫌われ、お遍路さんお断りの旅館が珍しくない、そんな時代の到来です。お接待を強要したり、傲慢無礼な程度のお遍路ならまだしも、最悪・極端には泥棒遍路さえ将来は出現するかも知れません。
 もとより単純にそれ一色で色分けできません。嫌われる要素や尊敬される要素が複雑に混ざり合ったお遍路観で説明すべきものです。
 玉石混交という場合、百%善の「玉」と、百%悪の「石」が各々別のもので、それが混交していると勘違いしてはなりません。そもそも玉石は一体の存在であり、中味の善悪に程度の差異があるだけなのです。90%善で10%悪の場合は「玉」と呼ばれ、40%善で60%悪の場合は「石」と呼ばれますが、日々、時時刻刻その善悪比率が変化するあやふやなものです。
 お遍路観には、警戒・監視・羨望、そして、蔑み・差別・排除・汚い等々のマイナス要因と、尊敬、愛情、連帯等々のプラス要因とが複雑に混ざり合った感情が流入したものとなるでしょう。しかし、そもそもお遍路とはそのような存在なのです。決して好ましくも望ましくもない遍路像ですが、それでこそ伝統的なお遍路らしいお遍路といえます。お遍路の数が爆発的に増加する時代とは、そのような時代なのでしょう。
 このような時代になって真価を発揮するのが「善根宿」です。真の意味での緊急救助に該当します。捨てる神あれば拾う神あり、旅館に断られたお遍路さんにとって地獄に仏ですね。四国の人々の中から、必ずこのようなお大師さんが出て来ますよ。
 歴史を進歩と見てはなりません、それは偏見です。

(8)遍路道の難所

 現代の遍路道を歩く限りは、基本的に難所は存在しない。しかし、山道等、古い時代の遍路道には軽度の難所もある。しかし、海辺の岩を跳び歩くような浜道の重度の遍路道を歩くこともないので危険度は低い。
 だが、新しい遍路道でも歩車道未分離の道路やトンネルの中など、また、横断歩道とプッシュ式信号機の欠如等々、行政的怠慢の道路施設は難所でもある。このような行政的怠慢を放置したまま、「世界遺産」に立候補するのは、バランス感覚に欠けています。歩道が途切れて左右反対側にコース変更されていても、にも拘わらず横断歩道が無くて危険な個所がやたらに多いのです。県・公安委員会の所管事務であっても、知事や市長村長はもっと積極的に働きかけて下さいよ。

 (9)感度の鈍いライター

 四国遍路を美化するマスコミやライターの諸著作が、お遍路の一面を正しく評価しているのは、その通りです。しかし、いささか過剰感があります。余りにも単純・ワンパターンです。読んでも読まなくても、およそ内容の察しがつきます。いずれも似たり寄ったり、少し食傷気味です。
 およそライターとは、本来、しっかり物事を見る目を持ち、併せて表現力をも持っておられるはずです。しかし、現代のライターさんは「見る目」が弱く、受信能力の感度が鈍い人が多いですね。些かの表現力さえあればライターとして通用すると信じているらしいが、恥ずかしくないのかね。私ごとき「史料屋」は残念ながら表現力を持っていないので、もどかしい思いを致します。そこで仕方なく悪文を綴っています。

  3、歩き遍路のコツ

古来からの「仕来り」について

 活字(木版)で残っている「古い仕来り」としては、真念の『四国編禮道指南』貞享4年刊で見受けます。しかし、それ以前の室町時代後期から四国霊場巡拝が活発になっているので、巡拝形式も徐々にその頃から整いつつあったものと推定されます。
 真念の上記マニュアルでは、回向の仕方等の記述を除けば、「資具(持ち物)」として明示されているのは「紙(今の納め札)はさみ板」の他は、@負俵(おいだわら。現代のリュックザックに相当。撥水性と通風性を両立させたワラ製品)A面桶(めんつう、弁当箱。乞食の持つ飯盛用の木製曲げ物の器)B笠C杖DござE脚半F足半(あしなか。踵の無いぞうり)だけです。
 衣類についての記載はありません。当時の普通の旅姿が絵で描かれていますが、死装束認識の強調も無く、白色の指定もありません。杖についても「墓標」に転用可能なように五輪塔・卒塔婆形式だとは示されていません。多分これは後世の先達が付加したものでしょう。

<姿勢反響が様式化した>
 新米遍路が先達の真似をするのは当然です。この姿勢反響は様式化して行きます。お杖や衣装については後世の先達さんが権威と付加価値を高める為に奨励し先例化したもので、いつしか「昔からの仕来り」として定着したもののようです。しかし、それをも含めて「四国遍路文化」は多くの先人達が蓄積を重ねた文化遺産です。後世の著作物での変化と比較すれば明瞭です。
 従って「仕来り」は昔も今も変化するもので、今には今の「仕来り」があります。それは、衣装や持ち物にとどまらず、各側面で幅を持った「多様性」を許容する、という事だと私は理解しています。現代は草履でなくても靴でもよいのです。
 大師信仰は各時代においてその時々の民衆が付加・創出・変化させて行くものです。バス利用も多様性の一例です。

@履物は足半(あしなか)

 ハダシで歩くのが普通と認識する昔の人と、履物を履いて歩くのが普通と考える現代人とでは、「足半・あしなか」という踵部分の無い草鞋(わらじ)に対する評価はまるで正反対になる。昔の人は前半分だけでも有難いと思うが、現代人は欠陥商品に見えるのだ。前足で歩いていた時代では、足半に何の疑問もなかった。かかとで歩きなれた現代人には理解困難かも知れない。

 『信長公記』の中にも出て来る。信長は
足半を常に腰に携帯していた。一乗谷の朝倉を攻撃した際に、味方の武将・兼松正吉が裸足で足から血が流れていたのを見て、信長は足半を彼に与えている。
 『信長公記』の中には、天正7年11月22日の朝廷の儀式の場で、北面の武士11人が「
足半草履」を履いていた、という記述もある。足半とは踵(かかと)の無いわらじが普通だが、畳を使った高級な草履(ぞうり)にも足半があったのだ。北面の武士は貴族のボディー・ガードだから、足元だけは戦闘準備にして機敏に動けるようにしていたのだ。
 
 歩き達者のプロとも言うべき真念だからこそ足半だけを使用したのでしょう。履物は足半でなくても普通の草履でもよいと言う主旨の記述もあります。
 現代人はこの足半に疑問を持つでしょうね、しかし、昔は小走りに走るとか、おうこ(天秤棒)で荷物を担ぐとか、戦闘行為に及ぶ場合は必ず「足半」でした。明智光秀軍が信長を討つ為、老の坂を越えて沓掛に至り、西国街道を右折南下しないで左折し洛中に向かいましたが、この方向転換の時点で歩兵に草履から「足半」に履き替えるよう命じています。
 一般論ですが、昔は道を裸足で歩くのが珍しくありませんでした。半分だけの草鞋でも貴重なものです。この私も敗戦後の町を裸足で歩いていたものです。 


A
白衣について
 遍路の装束についても時代と共に変化するものだから、利便性とか自分の好みに従えば良いでしょう。しかし「形式が内容を決める」というのも経験則です。また一方、形式そのものは形式への参加者によって常に自己規定をやり直されながら更新し変化して行くものです。
 私自身は過去回の遍路で伝統的な白衣を着用していましたが、伝統的白衣でなく白いシャツを上着にしようと思っています。但し、背中の「南無大師遍照金剛」は古い白衣から切り取り縫い付けねば仕方ありませんがね。およそ形式やルールに金科玉条の不変はありません。長期に亘る定義・再定義の連続です。でもね、山中で行き倒れた際には、白衣の方が発見され易いように思えますね


◎準備等

(1)遍路用品

 一番札所の霊山寺で全て販売していますが、あらかじめ近隣調達するか、自己製作することも可能です。とにかく自宅で用意すると安上がりです。

地図・・・・地形図の利用について
歩き遍路の際、利用する地図も各人各様だと思いますが、私の場合は@コースの選択肢を多くするA歴史の道や旧集落を辿る楽しみB山道を適正に迷わず歩く、等々の理由から「国土地理院の地形図・2万5千分の1」を持参利用しています。私は枚方市立牧野図書館で閲覧し、必要な部分を1枚10円でコピーしました。
四国遍路の全コースに必要な枚数は125枚でした。若干のロスもあって必要経費は1500円位でした。自治体の図書館には地形図を備えている所が多いはずです。図書館のレファレンス担当者に電話し所在を確認すれば簡単です。
地形図はお遍路に持参する為ハサミで小さく切ります。予定ルート部分の周辺に限定し、概ね10cmx25cm位迄切り込みます。全重量は190gです。かさ張らずコンパクトにビニール袋に入ります。全体を3分割してヒモを通し、裏面や表面に連番を打ち、札所・トイレ・お宿の電話等々多くの情報を記入しておきます。ルートも宿も最善次善の選択幅を考慮し、2〜3色のカラーペンで賑やかです。
現場では当日歩く予定の分5〜6枚をビニールシートに入れて利用し易くし、雨からもガードします。道を間違えるリスクは格段に少なくなります。
保存会・宮崎建樹さんの本(第5版迄)は、国土地理院の承認を得ていないので、建前としては地形図を使用していない事にしているせいか、地形図は薄く印刷され、しかもルート指示の赤線印刷が濃厚な為、見難い欠点があります。コースを間違えるリスクも発生します。
宮崎本の長所は巻末の「宿泊施設一覧表」にあります。この部分の著作性は高く秀逸です。

菅笠・・・・近所の荒物屋か仏具店等でも購入可能です。札所で販売の笠には「悟故十方空」「何処有南北」等々の墨書が見られますが、未熟な私は到底そのような心境になれないので、何も書いてない無地の菅笠を好んで使っています(内側に小さく住所・氏名は書いていますがね)。何か書きたい人は自分の言葉で好きなように自己主張されては如何が。Tシャツの自己主張のセンスと同一理念でしょうかね。
 それよりも冠って頭が痛くないように、頭部に密着する輪に布を巻いたり、ひも2本を付け替え、しっかり固定出来る様に調整するなど、追加的加工を入念にしておくことが大切です。近所で買うとその作業が充分可能となります。

(金剛杖)・・・・札所で売っているのは値段が高く、また四角なので手を痛め易い。近所のホームセンターで適当なサイズの丸棒を買い、加工する方が良い。値段も1桁安いのよ。手で持つ部分に布かビニール・テープでも巻いて持ち易くし、また、雨にぬれても大丈夫なように加工するのです。うっかり手を離しても落とさないようにヒモを付けておくと便利です。
 札所の杖は「一木五輪塔」(卒塔婆タイプ)になっていますが、これは遍路の道中で行き倒れ死亡した場合に「墓標」に転用可能だという理屈からきています。この真似をしたいのなら、マジックインクで下から「地・水・火・風・空」と書き、「五輪塔タイプ」だと嘯いて下さい。無理して梵字で記入することはありません。老人の私は杖を2本持って歩いています。四国は山が多いので、登り坂や下り坂で真価を発揮いたします。登山靴不要という利点もあります。

 尚、橋を渡る際には「お杖をつくな」という伝聞も、後世に商品化されたお遍路の過程で先達さん達が修飾付加し、勿体をつけ先達の付加価値を高めたものらしい。真念の著書でも記述されていない。

・・・・「魔よけ」の必需品です。四国にはイノシシが多いので、山中では必ず鳴らしながら歩くのです。21番太龍寺の手前を静かに歩いていてイノシシにご対面した人が居ましたよ。「蛇さん人間が通りますよ」、「猟師さん、私を鉄砲で撃たないで」という合図でもあります。但し、街中や札所の境内でやかましく鳴らすのはダメよ、唯の騒音じゃ、「やかましいぞ!!」。

輪袈裟・・・・輪袈裟無しで歩いている人が結構多いですね。あえて欲しいなら我が家の菩提寺か近所の寺や仏具店等で調達できます。札所の寺号入りよりも、住所地付近の寺の「寺号」入りの方が良いですね。お遍路さんの出身地が判るからです。
 尚、通称としては「輪袈裟」でも良いが、遍路用品として売られているのは厳密には「半袈裟」である。プロの坊さんが使っている輪袈裟はもっと大きいものです。

白装束・・・・死に装束の意味で白いのですが、交通安全上も目立つ白衣は悪くありません。しかし、和式のものでなくとも、白い西洋式の衣装でもかまいません。背中に「南無大師遍照金剛」と書きたければ、マジックで書いて下さい。ズボンは白色に拘らない人が多いですね。とにかく速乾性であれば良いのです。

経本・・・・・般若心経だけを小活字でプリントした小さな紙切れ1枚をビニールで被覆していた人がいましたね。グッドアイディアですね。般若心経を暗記しておれば省略も可能ですよ。

数珠・・・・カウンターのツールとして必要ないなら、省略も可能です。私は持っていません。こんな意見、信仰熱心な先達さんのひんしゅくを買いますね。

納経帳・・・・和紙を切り揃えて持ち歩きそこに記入して貰い、帰宅後に自分で冊子に製本してはどうでしょうか。私は2回目以降のお遍路では不持参です。重ね判などナンセンスに思えてなりません。

納め札・・・・願い事、日付、住所、氏名を書いたものをワープロで作っては如何が。私は納め札の裏面に故人となった恩人方の院・殿・居士等(戒名等)を記入し「為供養」と頭書しています。

線香と蝋燭・・・・現地調達すれば荷物を省略できますが、お好きなように。私は現役時代の商売柄(教委で文化財保護行政を所管)、蝋燭の献灯には火災予防上賛成しかねます。
 尚、何回かプロの坊さんと同行したが、彼らは丁寧にお経を上げているが線香と蝋燭をあげていない。彼らは省略しているのではなく、必要性を認めていない。
 尚々、真念の著書でも「線香と蝋燭」は携行品に記述されていない。後世に商品化されたお遍路の過程で先達さん達が修飾付加し、勿体をつけ先達の付加価値を高めたらしい。

その他の携行品・・・・雨具、衣類、洗面具等は常識ですね。私の場合、針と糸(白)が必需品でした小さなハサミは百円均一のものです。懐中電灯や携帯電話は私の場合は8回目迄は無用の長物として不持参でした。確かに、懐中電灯では闇夜の道は歩けません。でも、懐中電灯は夜中に表札や看板の字を読むのには有効です。また、大きくて重かったのですが、ミニ製品が売られていたので、9回目以降は持参するようにしました。
 
 携帯電話も9回目以降は持つようになりました。高知県・浦の内の武市半平太像の所の公衆電話ボックス、ボックスだけは建っていたが、中身が空っぽであった。中身空っぽの電話ボックスは2回目の経験だ。俺も意地を突っ張るのをやめて降参することにした。
 
 トンネルの中では蛍光反射テープが有効です。私の杖には巻いてあります。衣類ではサルマタと肌着のシャツにポケットが無ければ追加加工した方がベターです。お宿での現金支出(洗濯機等)に便利です。
  歩き遍路は、選別観・選球眼が問われ試されてもいるのです。それを磨く修行の場でもあるのです。価値判断に鋭さの欠ける人は、ビジネスの世界でも高い原価の製品を作って平然としている「のんきな父さん」だよ。

(2)宿泊計画
 初日の宿泊所を6番安楽寺(0886−94−2046)、二日目を11番藤井寺隣りの「ふじや旅館」(0883−24−2907)とし、自宅から予約の電話を入れる程度で良いでしょう。とにかく、前泊のお宿の人から翌日のお宿の情報を得て前日夜に予約を入れることです。先々迄予約を入れては後悔します。先々のことは不確定なものです。最初、短距離しか歩けなかった人でも、数日中には距離が伸びてきます。また、老人は日によって体調の良し悪しのリズムを明確に自覚するようになります。
 最初はしんどいとか痛いとか悲鳴を上げていた若い女性が、徳島県の終わり頃にはぐんぐんと早く長く歩いていますよ。追い抜いた際、「気の毒に」と思っていた若い娘が、いつの間にやらこの私を抜いて先へゆくのです。その足の速いこと!!。「若さ」こそは全てに勝ります。

(3)費用
 1日当たり平均7千5百円。ケチケチで7千円。内、民宿の宿賃は平均6千2百円(2食付き)、素泊まりで4千円。民宿より宿坊の方が若干安いかもね。私の場合、通し歩き1回の費用、32〜3泊で、25万円あればOKです。物価値下がりの今日、宿賃は最高で6千円(2食付)程度に止めて欲しいものですな。

(4)所要期間
 年齢や個人差がありますが、初回ではおよそ45日程度ならゆっくり安全に歩けます。66歳の私は、4回目以降は32泊33日で大窪寺を打っています。

(5)初回遍路のコツ
 お宿にありつけない恐怖症にかからないことです。極端な話、翌日のお宿が確保出来なければ、同じお宿で連泊し休養しようと覚悟を決めておれば良いのです。ご安心下さい、決してそのようなことにはなりませんから。だから、寝袋など持たないようにしましょう。心配症と荷物の重さは正比例致します。

 ◎歩きのコツ

(1)日本式の歩き方

 歩き方にも洋式と和式があります。
 洋式は踵(かかと)から先に地面に着地する方式で、踵に重心をかけ背筋を真っ直ぐに伸ばす歩き方です。この歩き方では姿勢がピンとよく伸びて、振る手は踏み出す足とは逆方向になる。右足を踏み出すと右手は逆に後方へ振られる。左足を踏み出すと左手は足とは逆方向の後方に振られる。
 一方、和式は洋式とは正反対に足の前半分を先に着地させ踵ほとんど使わない方式だ。この和式歩行では前かがみになり背筋が曲がり体重移動させて歩くので洋式とは全く逆になる。右足を踏み出すと右肩が右側に下がり、右手も足と同方向の右に振られる。左足を踏み出すと左肩が左側に下がり、左手も足と同方向の左に振られる。 尚、前足歩きではスリ足にならない。また、踵歩きでは転ぶ確率が格段に大きいが、前足歩きではほとんど転ばない。

 洋式歩行の典型例はソ連軍歩兵の分列行進での足運びで、和式歩行の典型例は酔っ払いの千鳥足や、天秤棒の両端に商品をぶら下げ荷って売り歩く昔の物売りの歩き方である。船と岸にかけられた踏み板を渡った荷役人夫の足運びも典型例だ。

 真念は著書
『四国遍路道指南』の中で履物について、「足半(あしなか)」と記述しているが、足半とはかかと(踵)部分の無い「前半分だけの草鞋」をいう。現代人のように踵(かかと)を先に地面に着地させて歩いている人々にとっては理解に苦しむでしょうね。この半足(はんそく)草鞋は日本式の歩き方(ナンバ)に対応したワラジなのです。
 中学生時代の私はボーイスカウト(大阪第14隊)でしたが、そのリーダーのお兄さん(仇名は「たっぷん」)は肥汲み稼業でした。天秤棒の両端の肥桶(ババたんご)を担いで牛車の荷台に上っていくお兄さんの動作で気付いたのですが、前足部分しか使用せず、半身の構えで運んでいました。細い板が斜めにかけられていますが、かなりの急角度の斜面をし尿をこぼさないで登って行くのです。平地を歩くときも同じく半身の構えで前足だけの使用です。もし、天秤棒で運搬中にかかとを使ったりすると肥桶が跳ね上がってし尿が散らかって汚れてしまいます。
 戦後間も無い頃、大阪の貧乏長屋には早朝に「ててかむイワシ」と声を張り上げて魚を売りに来たおじさんも天秤棒を担いでやってきました。地下足袋を履いたこのおじさんも前足だけで、ひょいひょいと天秤棒をしならせて歩いていました。これらの歩き方は全て日本式の歩き方で、歌舞伎ではナンバとも呼ばれていました。
 年貢米の津出し風景ですが、米俵を担いで河岸から狭い板を渡り船内に運び込んでいる作業や、港湾での沖仲士の作業(クレーン設備が出来る迄の作業)では、半身の構えで狭い板の上を前足だけ出歩く和式の歩きです。
 
 「
足半(あしなか)(踵の無い草鞋・わらじ)」を用いた真念の歩き方はこのような和式歩行であったと判ります。和式とは重心移動の歩き方です。極端に疲れた時や酔っ払った時はごく自然に和式の歩き方をしています。分かり易く言えば「千鳥足」がそうです。和式の歩き方を儀式化したものに大名行列の人足の歩きがあります。
 体重移動させながら省エネで歩く和式の歩き方を難しく考えないで下さい。現代の私達が真似るとすれば、踏み出す足と同じ方向に肩を少し落とせば良いのです。又は、首を少し傾けてもかまいません。結局、両方の動作を同時にやっています。
 もし、手を振れる状態なら真横に振るのです、もちろん踏み出す足と同方向です。これも自然に行えます。手を前後に振ると踏み出す足と逆方向に振っていますが、真横だとなぜか足の踏み出す方向に同調しています。

 飛脚衆もこのような体重移動式の駆け足でした。ホンダのロボットが歩けるのも体重移動を取り入れたからです。和式の特徴は省エネ型です。消耗が少ないので長距離歩行に向いています。
 これに対し西洋式では、まず、頭のてっぺんから会陰(お尻の穴近く)を貫く直線を地面に対し垂直にし、更に、両脚の回転軸及び両肩と両耳の軸を水平(縦軸とは直角に)にしてかかとから先に着地して足を運びます。西洋式はダイエット型といえます。運動量を大きくしたい人に向いています。
花魁道中の足運びはあまりにも動きが装飾化(8の字描きは和式歩行と無関係)されていますが、基本は和式歩行です。


(2)荷物は3キロまで

 「器量によって荷を持て」と言えますね。体力に自信のない人は、荷物の重量をキロまで軽くしましょう。それに非常用の食料品が加われば4キロ近くになります。そして、それを前後に振り分けることです。それ以上重い荷物を担いで「しんどい」と言うのはその人の勝手です。わざわざ自分でしんどい選択をしているに過ぎません。
 通し歩きの遍路に失敗して、レンタカーに乗ったり、一旦帰宅した人を知っていますが、何故か共通して登山愛好家でした。とにかく、彼等の荷物の質量たるや驚く程多く重いのです。登山関係のマスコミでは、軽装備主義を非難し、重装備主義を奨励していることの悪影響のようです。山好きの素人に高額商品を購入させる謀略の悪影響でしょう。
 私の見解では、山で遭難する最大の原因は、装備過少による状況対応不全にあるのでは無く、むしろ体力不相応の過剰・重装備によるスタミナ消耗にあると思うが、お遍路に重装備思想を持ち込む登山家は、状況に応じて戦略・戦術を変更出来ないらしい。妙なエリート意識をぶら下げ、「私は登山経験が豊かだから、お遍路など軽いものです」と顔に書いてある。日本人には何故かこのような「大艦巨砲主義者、戦艦大和崇拝主義者」が多い。
 蛇足ながら、登山と歩き遍路は全く異なる。登山は短期決戦だが、歩き遍路は長期戦である。長期の戦略と、短期の戦術とでは大きな違いがある。それに四国の山の高さはせいぜい千メートルだ。
(蛇足)
 過去、「最高の重さ記録は北海道の中年の男性で計量したら58kgもあった。荷物にはお布施で貰ったお米が1斗もあったので減量の為に買取を申し出たが、貰い物だからと言って断られた。余りに重いので1日の歩行距離は7キロだった、と言う」(内妻荘のご主人の話)。
 この私が東洋町で確認し、内妻荘のご主人の証言とも一致した事例に、「若い男性が生きた鶏1羽を篭に入れて飼育しつつ歩いて」いた事例があった。

 (3)足にマメを作らない工夫

 足にマメが出来る最大の原因は、足の皮膚を蒸気で蒸して弱くすることにある。弱くなった皮膚をイビツに圧迫し続けるとマメが出来る。これを防ぐのは簡単なことで、靴の中の風通しを良くすれば済むことです。足の皮膚を常に乾燥させておけば、少なくとも一日当たり40キロ余りの距離を連日歩いても、マメは出来ません。
 普段履いている寸法より2・5センチ大きいスニーカーを買い、ソルボの中敷を用いるのです。最も大切な工夫は靴の両サイド四カ所にハサミを入れて風通しを良くすることです。私がお遍路で履くスニーカーの価格は二千円代のもので、それ以上高価なものはお金の無駄遣いです。靴の両側四箇所にハサミを入れて大きく口を空けてしまうので、前後に割れてしまいます。そこを二重の靴ヒモで結合させ、足指の関節の屈伸をも良くします。中敷のソルボは不可欠です。私の通勤用の靴のサイズは24.5cmでしたが、お遍路用の靴は27cmもの大きなスニーカーを履いています(サンダルは駄目よ)。
登山愛好家の靴は登山で履き慣れていたはずだが、お遍路では小さ過ぎてマメをつくり易く、登山のベテランも戸惑っている。短期間・短距離主義の登山(せいぜい1週間)と異なり、1ヶ月以上もの長期間・長距離歩きでは彼らの山経験も役に立たない。

 
 (4)靴の改造論

 私の「靴と足の一体化否定」論には、異論が多いので再論させて下さい。
 まずトンカチを想定して下さい。鉄と木を結びつけて一体化・固定化しその用具を同時に一体動作させると、結合部分で弱い素材の方に痛みや傷が発生するのは当然の常識です。靴と足を一体化させるなという理論的根拠はそこにあります。
 短期的には痛みも傷も目立ちませんが、長期使用しているとその痛みに気付くはずです。短期決戦の登山で通用しても、歩き遍路のような長期戦では強度に著しい開きのあるものを結合し、一体動作・同時動作させてはなりません。
 足と靴を一体化させると靴と足は運命共同体となり、靴の傾きに連動して足も傾くので挫き易くなります。ブカブカの靴では靴の状態が著しく傾いても足は反射的に水平確保の動作を致します。この平衡反応機能を抹殺するのは愚かなことです。ゲタの利点が生かされるとはそのような反射動作への着眼です。
 また、ゲタそのものが持つ本来的な機能にも水平化維持の機能があります。登り坂では前歯が、下り坂では後ろ歯が中心になり体重を支えてゲタの表面は常に水平化を保持してくれます。靴作りのコンセプトにおいて、千年以上の伝統を誇る優れたゲタ文化を無視する靴メーカーの不勉強には声を大にして抗議したいのです。1本のヒモで足を締め付けるのは愚行です(靴ズレします)。靴で歩かずにハダシ(靴下付で)で歩く要領です(靴ズレ回避の為に)。

 (5)靴を買う工夫

 軽登山靴といえども重過ぎます。ソルボの中敷を含め片方で400グラム、一足で800グラム位の2・3千円のスニーカーが適当で、それ以上重い靴は全て不適当です。一万円を越えるような高価な靴は全くの無駄、バカげています。歩け歩け協会推薦の靴などお金の無駄遣いであり、歩き遍路のスタミナを無駄に消耗するだけです。また、防水性の靴は最悪です。通気が悪く、大雨や水中歩きで靴の中に一旦水が靴の中に入ってしまうと、水が靴の中に滞留してしまいます。お遍路さんは、台風でもウドン雨でも歩かねばなりません。
 これに対して私の靴は「武田信玄流の靴だ」と、嘯いています。信玄の築堤術のコンセプトから学んだからです。靴の中に水が入り易い代わりに、出て行き易いので、意外に歩き易いのです。靴下も濡れ易く乾き易いのです。足にマメは出来ません。欠点は小石が入り易いことですが、あまり支障にはなりません。私のスニーカーの裂け目にネットを張ったような新製品を開発して欲しいものですね。
 とにかく、色々な機能や付加価値を宣伝し、高い値札をつけている靴にロクな商品はありません。ある一つのメリットなり機能が強調されるということは、その反面では幾つかのデメリットを同時に抱え込んでいる事を見逃してはなりません。あらゆる薬が同時に毒でもあるように、物事の仕組みはそうなっているのです。例えば、完全な短靴になっておらず、足首を保護し捻挫を防ぐと称した大きく重い靴に、高いお金を払って足の筋肉の動きを制約するよりも、短靴のスニーカーの方が足の安全に遥かに有効です。
 とにかく、ありとあらゆる事故に対する最も有効な予防策は、スタミナの保持です。歩き遍路が至上の価値を認めているのは、スタミナの消耗最小化の原則です。

 (5)靴の履き方

 連日長距離を歩くには「靴で歩かず、裸足で歩く」ことです。靴を履いた状態で裸足で歩くのです。靴の中で足を泳がせると裸足で歩けます。
 また、マメをつくらずに長距離を歩くコツも「靴と足を一体化しない」ことです。靴下と足の一体化迄は止むを得ませんが、靴と足は分離せねばなりません。微妙な遊び・ゆとりが必要なのです。5本指靴下を履いた状態の足で、柔らかい地面を歩く要領なのです。靴とはそのような「柔らかい地面」なのです。靴ではなく「柔らかい地面」を連れて歩いていると思いましょう。
 その際、ヒモの結び方にもコツがあります。1本のヒモで結ばずに、3本に分割し、前・中・後の3箇所を、それぞれ独立に結ぶのです。その際、足先のヒモ2本はゆるく結び、手前のヒモは靴が脱げないように少しきつく結びます。但し、きつく結ぶと言っても、靴を脱着するのに、いちいちヒモを解かないで脱着出来ねばなりません。大切なコツです。ヒモを結んだまま30数日を通し歩き出来ねばなりません。お宿に着いても、朝出発する際も、ヒモは結んだままです。このようにすればとにかく便利で時間も節約出来ます。足と靴の間にゆとりがあり、空気の流通が良いので、休憩時にもいちいち靴を脱ぐ必要がありません。
 この見解に対し多くの人々から「グリ石の上を歩く時など不自由だ」「靴が脱げ易い」「山では危険だ」「常識に反する」等々の反論があります。しかし、これらの見解は「下駄履き」文化に無理解な証拠です。

(5)ゲタ文化の再評価(履物とは何ぞや)

 靴の中で足を泳がせることです。
 地面を連れて歩ける、これがゲタの長所です。履物と足を一体化しない歩きの極意がゲタの文化にあるのです。足の裏とゲタはついたり離れたり、ペタペタと歩けるので地面と足との間でゲタが緩衝地帯・クッションになり、意外に頭に響きません。
もとより、鼻緒が切れる欠点があり、雨の日は泥を跳ね上げる欠点があります。また、木は固いものです。
 ゲタ文化を再評価せよと言っても「ゲタを履け」と言うのではありません。履物と足との理想的な関係のあり方を靴文化に吸収せよ、と言う意味です。「靴のゲタ化」が私の論旨です。
 靴をゲタのように履くとすれば、足と靴の一体化を否定せねばなりません。靴のメーカーは「履物とは何ぞや」という根本を探求しているとは思えません。専ら靴を前提に靴機能に限定した利点ばかりを追及していますね。しかし、そのような研究態度は頭の固いバカのやる行為です。でもね、自分をバカとは思っていないところがあって、処置無しです。何百年も続いた伝統文化のゲタを単純に否定するのはアホの脳味噌ですね。ゲタの良さは何処にあるのか、ゲタを履いて散歩すればすぐに気付きますよ。
 聖徳太子以来、輸入文化をそのまま使わずに、日本の固有文化となじませて来たのが日本文化の特徴です。外来文化の仏教の仏様も日本古来の神々に垂迹させたり、パンにアンコを入れたりして来たのが日本文化の特徴です。靴にゲタの利点を取り入れる発想が、靴メーカーに欲しいものです。但しサンダルは駄目、下駄文化との関連性無し。サンダルは出来損ないの靴なり。
(蛇足)
竹中大臣の政策もアメリカからの直輸入そのまま主義ですから、この男もバカですわ。

 (6)オリーブ油が最良

 オリーブ油を胸や背中に塗るとシャツ一枚の差があります。オリーブ油はギリシャ・ローマの時代からその使用実績と有効性が証明されています。英雄達にも美女達にも使われていました。オリーブ油は皮膚に吸収され皮膚が強化されます。「吸収」のニュアンスをご賢察下さい、ベトつきません。馬油の「塗る」とは大違いで、足の皮膚強化には最適です。これに対し,馬油信仰はお金の無駄遣いです。 
 例え効用が同じとしても、安価な方が良いに決まっています。蛇足ながら、肌の弱い人や肌を美しくしたい人はオリーブ油を体に塗布することです。売れてないライターさんよ、このオリーブ油の効用を書いて女性週刊誌にでも売り込みなさいよ。薄着出来るメリットはお遍路にとって実に有益でしたね。最近大阪読売TV昼の番組で、みのもんたがお茶の油等の食用効用を強調していたが、そこでは安価なオリーブオイルが第二位で高く評価されていましたよ。実は塗布も良いのですがね。

 (7)菅笠のコンセプト

 低湿地帯大阪には特産品に「ナニワ菅笠」があり、落語にも出て来ます。低湿地に自生のスゲ(カヤツリグサ科スゲ属)を原料にした菅細工の製品です。大阪市東成区深江南には、今でも幸田正子さんのような「伝統技術保持者」が頑張っています。日和笠と雨笠を兼ねた日常生活必需品で、農作業には不可欠でした(『摂津名所絵図』等)。お伊勢詣りの旅人やお遍路さんにも重宝されました。
 この菅笠のコンセプトは実に優れています。「日光と雨水は通さないが、風や水蒸気は通過発散させる」という優れものです。このコンセプトはアジア世界で千年以上もの大昔から伝統として継承されて来たものです。微細な毛や毛細管現象に着眼した製品です。最大の欠点は強風に弱いことですがね。
 この菅笠の長所を抹消するようにビニールのカバーを被せて使用するのはナンセンスです。ビニール・カバーが雨を防いでくれるとか、笠を保護している、と多くの人々が錯覚しているのです。しかし、ビニール・カバーは頭の大敵です、雨天でもビニールカバーは不必要です。脳天からの水蒸気発散が適正でないと、頭がクラクラしてきます。
 この菅笠のコンセプトを猿真似した雨具等の製品を無茶苦茶な高値で売りつけているのが、ゴアテックスです。なお、日本古来の雨具のも、風は通すが雨を通さない長所があります。欠点は嵩張ることです。また、ビニール製品の雨具は軽くて嵩張らないが、発散した汗で内部がビショビショになります。
 蛇足ながら、藁葺きの屋根は今や田舎でも珍しくなりましたが、このワラで葺いた屋根は、雨を排除するが風を良く通し、水蒸気もよく外へ排出するという優れものの建材で、菅笠や蓑のコンセプトと同一です。夏は涼しく、冬は暖かいのです。但し、火気に弱いのはご承知の通りです。ワラ以外の不燃性材料で、ワラの繊毛・毛細管機能を生かした屋根葺き用の建材を開発するような会社は無いのかね。
 あらゆる人工の素材は人間がインプットしたものしかアウトプットしない。だから単純で把握しやすい。これに対して天然の素材は、人間の認識や知識の限界以上の奥深い品質を持っている。
 ゴアテックスも、ポンチョ式の雨具を二千円以下の価格で売り出して欲しい。加工が簡単だから充分可能なはずです。

菅笠の博物館へどうぞ

写真撮影OKです。名称;深江郷土資料館 06-6977-5555、地元住民団体で設立運営、
〒537-0002大阪市東成区深江南3丁目16番14号
入場無料。土・日・祝日のみ時間限定で開館、平日は閉館。午前10時〜12時&午後2時〜4時。館外には菅の栽培田も付属し栽培しています。
今年7月から開館し、地元の人々が交代で運営に従事。
地下鉄千日前線・新深江駅下車東へ、千日前通りだが奈良街道(暗がり峠越え)と短く重なる。深江稲荷神社の北隣。深江は菅笠の産地なので地下鉄新深江駅の壁も菅笠のデザインです。

 (8)リュックサックの設計思想に異議あり

 近年販売されている容量の大きいリュックサックは、負荷を分散させる為、腰紐・腰ベルトが設計し付加されている。ひどいものになると胸部を締めつけるベルトまで付加されている。負荷を肩だけに集中させない工夫として、登山家等に好評である。しかし、私はこのコンセプトに大きい疑問を持っている。
 人間の体の中でもあらゆる動きの要となる腰は頑丈に出来ているので、多少この部位を圧迫したり、動作に多少の制限を加えても、マイナス感覚は皆無である。むしろ肩への一点集中が回避・拡散するのでプラス感覚だけしか自覚しない。
 腰の痛みなど、すぐには出て来ない。でも、プロの力士や、若い時に重い
力石を持ち上げる競技で優れた成績を上げた人が、老人になってから腰に重大な障害を生じた人が少なくない。一カ月以上も長期間歩き続けるケースで、腰部位を継続圧迫し、長期間動作制限することに、全く弊害が無いと考えてはいけない。胸部圧迫のベルトなど、ナンセンスの極みである。
 確かに、腰ベルト式リュックの短期的着用の場合には利点がある。また、岩場にへばりつくような場合、腰ベルト式は良い。しかし、お遍路のような長旅のケースでは、後背への片方偏在の負荷方式よりも、体の前後に振り分ける昔ながらの旅姿方式の方が合理的である。
  このことを数字的に示すことが出来ないので、説得力に欠けるかも知れないが、何ヶ月も全国を歩き続けた経験からの結論である。しかし昔の旅姿の通り、荷物を前後に振り分ける方式に合理性があるというのは、何百年もの歴史で証明済とも言える。腰紐・胸ベルト方式が良ければ、とっくの昔に発生していたはずである。
 現代人はあまりにも伝統的価値を軽視し、無批判に商業主義にのせられているが、何百年もの経験則を否定するような新しい論理が、そんなに簡単に出て来るものではない。実に浅はかであるとしか言いようがない。
 さて、振り分け式のリュックを開発・販売してくれと言うのが、私の要望である。船舶に積載している救命用具のイメージに似た商品となろう。いささか不細工、カッコ悪いと冷やかされても、老人が歩いて長旅するには、実用性を第一義としたい。前後の荷重配分は前3.0、後ろ4.0、左右各1・5位が良い。

 (9)二本杖の効用

 杖が一本でも嫌がる人が多いのに、「二本杖などとんでもない」と言う人が多いであろう。しかし私のような非力な老人は、杖が二本ないと歩けない。カッコ悪いのも何のその、山を登る時や下る時、滑り易い所など、常に三点確保が出来るので有用である。靴底の滑り止め機能が悪くて不充分でも、何ら支障が無い。軽登山靴と称する重い靴など、クソ食らえだ。脚が痛んだ時など、実に有難い。常に両手が塞がるわけでもない、片手で二本を持ったり、一本を担いだりすることもある。
 しかし、遍路用品として販売している杖は四角いが、これは手の皮膚を痛めるので余り良くない。一木五輪塔の形式をとっているからとて、何故四角に拘るのか、丸形に改めて欲しいものである。仕方ないので、ホームセンターで材料を買って自作している。

    4、遍路道とは何ぞや 

 遍路道とは、お遍路さんが通る道のことです。実に簡単な概念規定です。もとよりいつの時代であれ、旅人や村人や色々な人間が、様々な目的で道を通過し、多様なコースを辿っています。遍路道はそのようなコースの内の一つです。ハイキング・コースと言う場合のコース」と同じです。「お遍路ルート」と呼んでも良いでしょう。
所有者別・管理者別には、国道、県道、市町村道、私道等々ですが、お遍路さんはその中からルートを選定し歩いています。
 但し、いつの時代のお遍路さんが通ったか、その時代によって、近世の遍路道や近現代の遍路道等に分かれます。従って、江戸時代のお遍路さんが通った道こそが正しい遍路道で、現代の新道が遍路道ではない、というのは大間違いです。田圃の中に新しく出来た広幅員の自動車道であっても、お遍路さんが通る限り立派な遍路道なのです。

 江戸時代でも常に新道が出来ていました。そして、旅人達は便利な新道を利用するので、旧道が廃道となった事例が数多くあります。遍路道が歴史街道である必要は毛頭ありません。
 例え廃道にならなくても、新道が開発されて距離や時間が短縮されると、昔のお遍路さんは少しでも便利で楽なコースを選択していました。
 例えば、22番平等寺から23番薬王寺へ向かうコースについて、明治十六年一月出版の中務亀吉(茂兵衛)著『四国霊場略縁起道中記大成』20pでは「松坂しるし石あり。たい村、とまこえ坂、おほ坂、ひわさたい村、をた坂くだり川あり、是は古道なり。今は人々新道へ行也。新道へ行時は、廿二番より一里半行けば下福井村。」とあります。ここに言う古道とは、南の海岸回りのコースのことで、新道とは、概ね現在の国道55号線近似のコースのことです。
一方、貞享四年刊の真念の著書『
四国邊路道指南』廿六丁では「たい村とまごえ坂きき浦」と、田井から木岐(きぎ)浦への、南回りの古道コースだけが示されています。ようするに、幕末から明治初期にかけてのお遍路さんは、不便でしんどい古道よりも、便利で楽な新道を選択していたのです。蛇足ながら、中務亀吉(茂兵衛)著『四国霊場略縁起道中記大成』という本は、その内容たるや真念のガイドブックと同一丸写しの記述が多く、ほとんど盗作に近いものです。私がこの男をインチキ臭い男だと感じた理由の一つでもあります。   

 さて、古代・中世の道や近世の道は、郷土史家から大学等の研究者まで、幅広く研究されています。特に、各自治体の地方史編纂や文化財保護担当部局が熱心に研究し、その成果を出版しています。そして、歴史街道として標識標柱等を整備していケ−スも数多く見かけます。
 従って、江戸時代のお遍路さんが通った道を自分も歩きたい、というのであれば、それらの先発研究を踏まえて、二万五千分の一の地形図を睨み、道筋を読みながら歩くのが最上でしょう。しかし、実際には大変困難なものです。
 かりに、へんろ道保存会の「宮崎標識」を頼りに歩いたところで、旧街道の遍路道を見逃し、はずしている個所が何十箇所もあります。今もきちんと歩ける立派な歴史街道を、少しでも多く歩きたい方は、やはり別個の自分なりの工夫や判断が必要です。

 ちなみに、市町村や県の教育委員会等が発行した『歴史の道調査報告書』等を御覧下さい。 まず、同じ道の名称が同時代の別の地域(起終点)で異なっていたり。また、中世、近世と時代の違いによって位置が異なるのみか、幹線となる道の外、支線の道も別線で複雑に走っています。潰れてしまった廃道部分や、無くなった渡し船、新しい広幅員道路に吸収された部分等、それら全てを学問的に正確に地形図に落とした著作物を見た素人は、複数の複雑な赤い線や破線が混雑していて戸惑うこともあります。
 そんな場合は適当に歩いて下さい、難しく考えないことです。昔の道にこだわっても、拘りきれるものではありません。その昔のお遍路さんも複数の選択肢の中から多様なコースを選択していましたが、なるべく楽をする為、近道を選んでいたようです。
 それでも全国各地の歴史街道の標識や道標は、不思議な程一本のラインに絞って走らせていますね、明快で分かり易く出来ています。そこは担当者が色々と苦労し、工夫しているところなのです。「えい、やあっ」と決断している部分が無いとは言えません。

  [ 遍路道の原則 ]

  ☆省エネ主義・近道主義

 遍路道観は昔の人と現代の人とではかなり違ってきています。遍路道とは何ぞやと言う場合、昔の人は省エネ主義・近道主義に至上の価値を認めていました。スタミナの消耗を最小限にとどめることには、自分の命がかかっていたのです。それにもう一つ、お接待期待の集落回遊主義があります。
 昔の道標は、その全てが「近道主義」近道目的で設置されたと言っても過言ではありません。その証拠に、昔の道標には行き先・目的地と共に、わざわざ「ちかみち」とか「近道」と刻み込んだ表示が数多くあります。與田寺へ向かう道中の道標「八十八番奥の院、御再来遺跡、與田寺へ一里」(大正十五年六月)では、手の指図の上に「巡礼大べんり」と強調されています。昔の遍路道は「便利で近道」こそが絶対条件なのです。
 下ノ加江の長野地区には「寺山、
しんみち」と刻まれた道標があり、新道は重視されていた。
 一方、お遍路のコースから少しばかり離れていても、「修行」と称する「托鉢」目的で、昔のお遍路さんはわざわざ集落へ迂回することも、少しはあったようです。数量的には僅かでも、若干の集落のヒアリングで確認できました。 
 これに対し現代人の多くは、遍路道とは「わざわざスタミナを過剰消耗して、山道を歩くことだ」と誤解している人が少なくありません。ダイエット志向でレジャー的要素が濃厚なので、新しいトンネルを通らず、わざわざ「遍路ころがし」の山道を苦労しながら歩けば、「歩きの価値」が高くなるような錯覚を抱いています。かく言う私も昔の金石文に興味があって、いわゆる歴史街道を味わいつつ山道を好んで歩きます。し
かし、これは明かに遊びの要素です

大坂谷川休憩所付近「ちかみち。指さして、教ゆる道や、花の山。高橋 伊平」(高知県高岡郡中土佐町)

  極端な事例 ・・・・・  中務茂兵衛批判 

 3番札所金泉寺に入る手前に、明治時代に活躍した中務亀吉(自称;茂兵衛義教)が建てた石製道標があります。この人物はプロのお四国案内人である。他人に「施主」として金を出させて、自分も「発願主」としてデカデカと名前を刻んだ営業宣伝的・売名行為的な石製道標を数多く建てた人物で、今も四国各地に数多くの道標を残している。蛇足ながら、四国遍路案内を営業することは別に悪い事ではない。現代におけるバス会社や添乗員・先達のような存在で、中世の熊野古道にもそのような案内人は居た。後述する江戸時代の眞念もそのような案内人である。
 さて、金泉寺の手前の道標はまことに姑息なものです。狭い田圃の畦道を通り、山門を通らずに、いきなり寺の真中に入って行くので、確かに近道には違いない。しかし、ごく僅かな距離を、しかも山門を潜らないような近道を、近道と称して道標まで建てるのはこの人物(中務亀吉)の人格をよく表現している。きちんと街道筋から山門に入っても、どれ程の遠回りになるというのか、実際に現地を歩いた人なら良くお判りでしょう。山門を潜らずバイパスを通るのは、「礼儀正しい正式な客のとるべき態度ではない」のは当たり前ですね。現に67番大興寺や72番曼荼羅寺のバイパス通路には、それを咎める表示が出ています。67番大興寺では「ここは裏口です。仁王門からお参りください、それが佛様への礼儀です。裏口からお参りの方は納経は受けられません」と書かれた立て札があります。
 しかし、いくら礼儀知らずと言われても、スタミナの消耗を回避する事を第一義とした価値観には、ある程度の説得力があります。

 25番津照寺の山門を出て前に一歩も歩かず、すぐ右に折れるとビジネス旅館「竹の井」の所に出るが、そこの狭い路地の角にボロボロになった小さな砂岩の道標がある、剥離がひどく針金で何重にも巻いてある。この短い路地を抜け、短い階段を下ると両栄橋に出る。思わず笑ってしまった、「確かに近道には違いない、ごく僅かではあるがね」と。しかし、すぐに反省した。「スタミナの消耗を重大事とした昔のお遍路の真面目で深刻な気持ちを理解出来ていないぞ」と。そうなんです、ここで再び三番金泉寺手前の中務茂兵衛の碑にも一理のあることが判って来たのです。
 さて、西日本の各地で村の若者達が成人に達したとき、ある種の通過儀礼として、西国観音三十三カ所巡礼や四国八十八カ所に出掛ける習慣のある地域が少なからずあります。この場合、前年の参加者の内、一人が翌年の参加集団の中に加わって道案内のリーダーを務める事例が残っています。その際、リーダーの引継ぎで最も重視されるのが「近道」でした。(『権現町誌』参照;現、松山市堀江町)。近道には至上の価値があったのです。

 [ 理想的な遍路道 ]

 理想的な遍路道というよりも、歩いて楽しくお遍路気分が満喫できる遍路道、歩きたい遍路道と言うべきでしょうね。私なりに持っているこのような遍路道のイメージは、歴史的建造物の多い古い家並みの旧街道です。タイムトンネル効果抜群のルートです。四国の歴史を感じる古い家並みの歴史街道は四国にしかありません。これに対し山道は面白くありません。豊かな自然を満喫したいなら、四国でなくても大阪でも大差がありません。難所で汗を流す体験は、大阪の山でも経験できます。

  具 体 例 
1、具体的事例について言えば、添えみみず坂より、七子峠越えの大坂谷ルートを選ぶ、というセンスを大切にすることです。このルートは四国の道にもなっています。古い家並みの残存状態が良く、地酒の醸造元(西岡酒造)があったり、元川沿いには桜並木もあります。丁度お花見のシーズンに気分良く歩いています。

2、内子町を歩く際に、銀行支店の所から左折北行し、八日市の古い町並みを通り、更に水戸森峠を越える松山街道のルートで、四国の道にもなっており、理想的な遍路道です。地元教育委員会の案内看板では内子高校の前のルートから左折し八日市の古い町並みを楽しみ、水戸森峠→松山街道を辿るコースを掲示しています。これが正解なのでしょう。(更に古いルートは内子高校よりもう少し山寄りだったのでしょうな)

3、山頂の小さな集落なのに1m余の狭い道を挟んだ2軒の家があり、間に国境線が走っていて伊予と阿波の二州に分かれている、遍路道にそんな所があります。
その場所には小さなお堂もあり、愛媛県が建てたらしい道しるべが二つ「(南)←掘切峠10,9km。境目0.1km→(北)」及び「(南)←呉石高原4,9km」と標示されています。北側約百mの所には宿泊可能な大きなお堂もあります。
宮崎建樹著『四国遍路ひとり歩き同行二人』でも不採用で、同著地図編71p下段の拡大図「県境3コース道順」Aのもう少し南側のルートです。
宮崎本Aルートの自動車道には「従是東徳島縣三好郡」と刻まれた大きな石碑がありますが、この場所から南方向にあるルートです。Aコースの進入口には「岡田民宿へ4k」の札がありますが、この方向へ左折後方戻りをせずにもう少し南へ直進すると地元の人が設置した大きな木製の道標が二箇所もあり、狭い橋を渡って山中に入れば2百m弱で当該集落のある山頂に到着します。そこを50mも下れば宮崎本71p下段Aのルートに合流します。
国土地理院2万5千分の1地形図「伊予新宮」の境目峠部分を走る県境ラインを御覧下さい。R192とほぼ平行に走っている高圧線と県境線とがクロスしている部分の少し北側に表示された集落記号が、県境線を越えた西側・伊予にも僅かにハミ出ています。私はここに注目したのです。「昔はお遍路さんが多く通っていたよ」と地元の人も言っています。
伊予側民家の郵便受には〒799-0127(川之江市川滝町下山)、阿波側民家に駐車の自動車のプレートは「徳島」です。

 [ 誤った情報 ]

 初めてお遍路している人の不安定な心に入りやすいのが、誤った情報です。ひどい事例としては「60番横峰寺を打つには、61番香園寺から逆打ちするのが良い」、という類のインチキ情報・デマ情報まである。実際には、大頭、大郷、湯浪を経由して、「四国の道休憩所」から丁石道(よく揃っている)を登山する順打ちが最良である。今年66歳の私の場合、休憩所からお寺の山門迄の所要時間は50分でした。なお、横峰寺から香園寺迄の降りの所要時間は2時間30分でした。この降りコースを逆に登山する時間はたっぷり3時間はかかるでしょう。昔の人は「スタミナ消耗最小限の原則」に従ってうまくルートを開発設定していますね。
 どうやらこのデマ情報は、某所での宿泊選択を誘導させる為の営業作戦的謀略の可能性が推定できる。
 数百年もの歴史を経過した順路の重みを軽く評価してはなりません。簡単に変更してはなりません。現代の歩き遍路を何十回も経験しているベテランに聞いても同じ答えです。およそ、お遍路のコースで逆打ちの方が合理的な所は一箇所も無いのです。
 デマではないが、格別なメリットが無い情報としては、44番大宝寺と45番岩屋寺の順逆の関係について言える。岩屋寺を先に打ってもメリットは無い、全く同じだ。美川村の河口から左折し、久万町の槙谷を経由、八丁坂を目指すルートに特別な利点は無い。ただ、その手前のルート選択で突合から右に進み、父二峰から左折して(明治初期の遍路道標がある)宮成に行かず、直進して落合へのコースに進んだ場合は、河口から左折せざるを得ない、それだけの事だ。

 [ 先達札の意義 ]  (保存会・宮崎建樹札への疑問)

 「先達札」とは仮称である。現代の多くの歩き遍路の先輩達が山の中等にぶら下げた道標(みちしるべ)の案内札のことである。初心の歩き遍路はこれを「安心札」と称して、恩恵に浴している。昔のお遍路さんも石の道標を例え一本でも建てることで後続者へ貢献してきた。諸先輩の「道標札」もその良き伝統を引き継いでいる。
 この先達札でも保存会の宮崎建樹札以前の札は、特に山中に多く有益である。後継者、宮崎氏もそれに習っている。山の中で道に迷ったら大変だから、実に有意義である。山中での選択肢の絞り込みは必要不可欠です。 しかし、集落や町場では少しばかり
疑問もあります。
 歩き遍路にとっての最高のバイブルは国土地理院の地形図です。しかし、札所間を歩くのにこれを頼りに歩いていたら宮崎札が奇妙な所に貼ってあり、混乱する事が少なくないのです。でも、宮崎札は緻密に貼ってあり、初心者がとにかく札所に到着出来るので、それなりに立派な遍路コースです。しかし、本来的には遍路のルートに正誤は無いものです。従って宮崎ルートも多くのルートの一つに過ぎません。
 元来、遍路ルートの決定権、独占権というものはありません。もとより宮崎ルートに優先権があるわけでもありません。しかし、宮崎氏の研究より遥かに良質・高水準の先行研究である「四国の道」に対する宮崎氏の態度には少し疑問を感じます。地形図と四国の道の道標を頼りに歩いていると、宮崎氏はご自分の研究水準の質についてどの程度自覚しておられるのか、そんな事を考え込みます。

  5、四國遍路の起源について 

八十八ケ所とは、元々は熊野参詣の九十九王子に遠慮してワンランク下げたものだったが、数字の持つ限定力・明示力が順礼実態に逆作用して札所数の拘束化方向に進み、やがて眞念(又は出版者)がガイドブックで札所に番号を付したので固定化してしまった。かくて素人でも巡拝し易くなり急速に大衆普及した。つまりプロ的な少数者が巡礼していた時代は「多数」の意味で曖昧だった88が、大衆遍路時代になって限定数88に厳密固定してしまった。四国遍路を大衆の遍路として性格付けする視点に立つと、四国遍路の起源は真念の時代から始まったと言っても過言ではない。その結果「番外札所」という補完的概念が鮮明化して来る。

◎一時期・単独・恣意的な意思決定

 札所選抜の基準がかなり偏っている。一時期に一個人が単独選抜した印象がある。「俺に大きな握り飯を食わしてくれたから、ここを御採用」と言うような安易な雰囲気が嗅ぎ取れる。衆知を集めてとか、会議で決定したとか、長年の習慣で定まって来た、と言う印象がしない。
 この私、現役時代には会議・会議また会議と言う不毛な会議の連続に辟易した経験があるが、衆知を集め協議を重ねると、平凡で無難でバランスの取れた中庸の判断に支配され易いもので、それはそれで長所もある。しかし、
@出石寺と海岸寺、金比羅さんのように、大きな社寺が抜けている。
A善通寺こそが一番札所にふさわしく思えるが、大坂に近い鳴門の霊山寺が一番になっている。
B琴弾八幡宮とその神宮寺(別当寺・宮寺)が別扱いされて、2箇所とも別個の札所として選抜・採用されている。
以上の有様を見ると、真念の単独犯行説がふさわしい。

 (1)眞念ガイドブック前後の古記録 

 「お遍路の父」と言われる眞念を批判するなど、とんでもない奴だ、と非難されそうだが、お遍路の歴史をじっくり検討すると、これが避けて通れない。先に、中務亀吉(茂兵衛)について「信仰熱心な職業的道案内人だが、善意百%人間とは言えず、他人のフンドシで相撲を取ったチャッカリ人間」と言う視点には、既にそれに近い先発研究もあるように聞こえてきました。さて、旅行商品の開発者にして最初の職業的「四国遍路・道案内人」眞念についてはどうでしょうか。彼のガイドブック発刊前後の諸史料の比較検討を通じて明らかにしましょう。
 眞念に拘る最大の理由は、霊場毎に固定化した札所番号が検出される史料で最も古いのが、今のところ貞享四年(1687)十一月発行の眞念のガイドブック以外に見当たらないからです。不充分な調査ながら四国の市町村史の寺院史料等を見ていてそう言わざるを得ません。ようするに、霊場毎に札所番号を割り当てて固定化したのは真念なのです。しかし、かくも無謀・大胆な行為は無学な浮浪者の真念だからこそ実行出来たのです。

 寛永15年(1638)8月に巡礼した空性法親王に係る記録では、現在の88か所全てを含むが、更にそれを遥かに上回る霊場を巡拝している。そしてそれらの霊場に正規の札所と非札所、あるいは番外の札所という区別が一切無いのです。
 賢明の記述によれば、道後の宝厳寺、義安寺、菊間の遍照院、日和佐の打越寺、宍喰の円頓寺、高知の常通寺、須崎の千光密寺、現津島町岩淵の満願寺、現大洲市の徳能寺等々の記載と、現在の札所88ヶ所霊場の記載とを区別する事は困難なのです。それら全てが等しく札所なのです。また、起終点についての明確な認識もみられません。「霊山寺に始まり、大窪寺で終わる」という現代的理解ではなく、むしろ円環的な構成認識です。
 この記録『
空性法親王四霊場御巡行記』は、空性法親王が伊予の大宝寺(44番札所)の権少僧正賢明を従がえて四国巡拝した時の記録で、著者は賢明です。(『国文東方佛教叢書』第7巻紀行部に収載、大正14年発行)。
(蛇足)空性法親王の父、陽光院誠仁親王は豊臣秀吉と親密過ぎた為に、その父正親町天皇に疎まれ中年を過ぎても譲位されず遂に死亡し、皇位は空性法親王の長兄(次兄は八条宮智仁親王)の後陽成天皇が継承した。
 さて、この賢明の著書を校註した鷲尾順敬及び三浦章夫の両名は、本書冒頭の「解題」で「四国には弘法大師の霊場多く、古来八十八ケ所を数ふ。蓋しこれはその重なるものなりと言ふ。」と、解説している。ようするに88ケ所と称しても、実際には88以上の霊場を全て札所とみなしており、正規も番外も区別していない。校註者両名は極めて正確にこの記録を評価している。88以上の数に膨れ重なっていても、通称は88なのです。

 次に承応二年(1653)七月に四国をお遍路した澄禅(京都智積院・知等庵々主)の日記でも札所番号の固定化はしていません。澄禅の日記では、海岸寺や金毘羅、黒峰馬頭院と参詣しており、88を超過している。しかし、他の札所と同じ扱いである。番号を割り当てている訳でもない。全て平等で非札所・番外概念は出ていない。

 (その1)        * * * * * * *

  賢明著『空性法親王四國霊場御巡行記』の特徴 (古記録だが非出版物、大衆普及目的無し)

(その2)          * * * * * * *

    澄禅著『四國邊路日記』の特徴 (古記録だが非出版物、大衆普及目的無し)

 (その3)         * * * * * * *

  『眞念ガイドブック』の特徴

 今日のように集落や町場が膨張・拡大し連坦していなかったので、位置や空間認識に有用な地形図が無くても、道順に村々の名前を細かく記述しているので不便はない。昔は田圃の中に小さな集落が点在し、視覚的にも遠望・目視可能なケースが多かった。眞念の著述の重点は、上記の宿泊所情報に重点を置いていた。その方が実用的であった。

  (その4)      * * * * * * * * * *

    (2)眞念の人物評

 大坂出身の眞念は寺院等のまともな組織に所属したことのない無学極貧の風来坊で、食い詰め者のような人物だったらしい。眞念が下書きし、洪卓がリライト(清書)したガイドブック『四国邊路道指南』発行の二年後に発刊された『四偏禮霊場記』の「」の中で著者の寂本は「眞念トイフ者有リ。トソウノ桑門也」と言う。私のパソコン技術ではトソウの漢字が出てこないが、「トソウの桑門」とは「行脚修行の僧」、即ち「貧乏な風来坊」のことである。その寂本の「叙」の直前に書かれている「」でも、執筆者の新義真言宗智積院第七世(著書の多い高位の学者僧)が、眞念に言及している内容では「もっぱらトソウノ者ノ迷びゅうヲあわれんで」と見下している。

 眞念の著書(『四国邊路道指南』)と言っても、出版するにふさわしい適格な原稿を書くだけの能力が無かったので、出版元から依頼されたらしい洪卓なる人物が、「清書(リライト)」を担当した。そして洪卓は、その第二著者的立場で「」を書いている。
 洪卓は眞念のことを「眞念法師」と呼んでいるが、沙門とか僧正とか、まともな教団組織の階層序列の職階の名称ではない。このように眞念は学問の世界とは全く縁遠い存在であったが、しかしこのことが彼を大胆にし、札所番号を固定化し出版普及するような思い切った行動をも可能にした。

    (3)札所番号の固定効果

 およそ日本国中の神社仏閣を回遊行脚する修行者は、中世以来珍しくなかった。一遍や西行など著名人に限らない。写経を奉納しつつ巡礼回国する六十六部等のプロ的修行者は、四国を含め全国を股にかけている。また、辿るコースは任意のもので自己決定されていた。
 従って当初はブラウン運動に近く、個人差があり過ぎて多様であっただろう。プロ修行者の回国修行とは元々はそのようなものであった。そして時代が経過するに従がい、やがて各地域ではそのコースがある程度固定化して行ったのだろう。四国でも眞念の登場以前から八十八カ所の呼称はあった。永正、大永、享禄の頃(霊場に残る落書き史料)から盛んに巡拝回遊され始めた四国の霊場は、貞享・元禄期以降のそれとは大きく変わっていない。承応二年(1653)の澄禅の『四国邊路日記』からもある程度窺える。にも拘わらず、霊場と札所番号を固定対応することに学者僧の寂本は反対した。

 さて、高知県土佐郡本川村の地蔵堂にある鰐口の銘文に「文明三年(1471)三月一日札所八十八ケ所」とあり、八十八ケ所の初出史料とされている。確かに中世史料であるが、このことを以って霊場の固有名詞と札所番号とが厳密に固定され1対1対応していた証拠にはならないはずだ。近藤喜博著『四国遍路研究』の所説には無理がある。
 八十八カ所とは、熊野参詣における九十九王子と同様に、語呂合せのような曖昧な数字である。九十九王子の場合も、実際の総数は99丁度ではなく時代によって異動がある。しかも熊野では特定個所の王子に特定番号が固定していない。
 さて、素人が実際に四国を巡礼する場合、対象となる霊場が不確定で八十八以上もあり、どれかを飛ばしても差し支えない、というような曖昧さがあれば全く困ってしまう。元々は歩くコースも百人百様、それがプロの巡礼だと言われても、素人の庶民には納得し難い。
 とにかく時代を経過するに従い、いつしか「大師御巡行の次第と言傳」(眞念著書の七丁)により、巡礼コースと札所のゆるやかな特定化は進んでいた。それでも曖昧さに我慢ならない眞念は、大衆に普及する際思い切って「えい、やあ」と踏み込んで、明瞭に活字に表現・出版したのである。
 しかし、眞念ガイドブックの出版から二年後に出版された高野山の学僧・寂本の著書『四国偏礼霊場記』では、札所番号とお寺の固有名詞とを対応させなかった。そこでは「八十八番の次第。いづれの世。誰の人か定めあへる。さだかならず。今はその番次によらず」と書き、明確に眞念を批判した。筆頭の霊場も眞念の場合は霊山寺だったが、寂本は善通寺を持って来た。
 札所番号を固定化するような公式の権威は何処にも存在しない。あるはずが無い。学僧・寂本はアカデミズムの人である。眞念のような傲慢な態度を、権威ある学識経験者は決してとらない。学問的節度が少しでもあれば恥ずかしくて出来ない。しかしそんな事に無頓着な、にも拘わらず、ものすごく熱心で善意のかたまりの人物眞念の場合は、いとも簡単に行動出来た。
 さて、眞念が行った事を端的に言えば、慣習の制度化である。彼の恣意で番号を固定化してしまったのだ。かくて単純明快、巡拝済み霊場を順次に消し込み・消化する方法で一巡できた。プロ級でなくとも、素人の大衆参加が容易になった。実に良く整理されて判り易い。眞念はガイドブックの発行で、大衆遍路のコースとしての四国遍路なる旅行商品の開発に成功したといえる。
 旅行商品の対象として四国回遊のケースに着眼した真念(又は版木屋・五郎右衛門)のアイデアは最良であった。生産性の高い、経済力のある畿内や山陽道に近く、しかも辺鄙性が充分な四国は、まことに巡礼コースの最適地であった。まことに商品開発のタイミングが良く、庶民の懐具合が良くなった元禄の御時世にぴったり迎合した。やがて彼も旅行案内人としてメシが食えるようになったらしい。彼が建てた道標がそれを物語る。

 眞念が弘法大師への真面目で熱心な信者であり、善意の人であったと、認めることには異議はない。しかし、彼のガイドブックがもたらした「札所固定主義」には、利点と欠点の両面があることを指摘しておきたい。即ち、大衆化と巡礼濃度の希薄化は同時進行するのだ。
 でも、大衆には判り易くなり好評を博したせいで、お遍路さんの数を飛躍的に増大させたという功績が生じた為、彼の恣意独断を批判的に論考する人は皆無となった。寂本のような専門学者の言い分など、クソ食らえだ。寂本の著書の売れ行きは悪かった。
 しかし中世期にプロの修行者が回っていた時の四国遍路と、眞念のガイドブックが世に出た元禄時代以降の「大衆遍路」の様相にはかなり開きがあり、後遺症も出て来る。即ち、限定札所の特権も固定化した。現在、非札所となっているお寺の納経による収入は、微々たるものになった。昔は曖昧なままだったのに、とぼやきたくなるだろう。

 ところで現在の状況を見れば、拡大解釈がもっと進んでいて、札所固定主義どころか札所間を結ぶ線位置まで固定されている。数多の矢印マーク・シールの効果がそうしている。しかし、巡礼概念に含まれている自己決定要素の比率が下がる程、巡礼濃度は下がるが、歩き易くなるという利点がある。ある種のベルト・コンベア効果である。このように、巡礼濃度と歩き易さとは反比例の関係にあるが、極端に巡礼濃度を下げたケースが自動車遍路であろうか。もっと極端に巡礼要素ゼロに近い事例が、飛行機に乗って空から巡拝するケースであろう。この空中巡拝を笑ってはいけない、矢印マークとの違いは程度の差に過ぎない。
 ようするに、四国遍路の歴史は巡礼濃度の低下の歴史でもあった。
 なお、真念の墓は近世遍路道に面し、香川県木田郡牟礼町塩屋南三昧共同墓地あったが、なぜか牟礼町牟礼の洲崎寺に移転している。このような史料の移動は文化財愛護の主旨に反する破壊行為に等しい。

 (4)近藤喜博氏の著書批判 

 彼の著書『四国遍路研究』15pでは、「八十八ケ所」の初出史料である土佐郡本川村地蔵堂の金石文史料に言及し、鰐口銘に「文明三年三月一日」とあるので、文明三年以前に「四国霊場を八十八と限定していたことを示し」と断定している。しかし、このような断定には大きい疑問がある。
 史料の評価で大切なことは、資料の分量とか前後の史料の出方など、幅の広い判断が必要である。また、類似例との比較判断も必要である。特に熊野参詣の史料の出方や、西国三十三観音巡拝の関連史料の出方との比較が重要である。確かに、史実と史料の残存実態の間には、戦火や災害などにより大きな開きがある。特定の点事件ならばそのように言える。だとしても、中世から四国八十八ケ所の霊場限定・札所番号の固定というような史実があれば、それにふさわしい史料群が、霊場以外でも四国以外でも、もっと残っているものだ。四国八十八ケ所の場合は時代の幅が長く場所も広域で、古記録も多種多様で広域に長期の幅で残存しているはずのものである。史実と史料の残存とは、かなりの程度は比例対応しているはずだ。
 近藤説には余りにも無理とこじつけがあり、不自然である。ミニ版八十八ケ所で霊場数の限定を推理し、本四国での霊場と札所番号の対応固定にまで拡大解釈するのは性急過ぎる。にも拘わらず、他の研究者の説については、極めて攻撃的である。
 例えば、「八十八を、熊野の九十九王子の九十九と同じように」「これを多数の意と理解する」のは、「学問上では真実味が欠けている」(178p)などと、景山春樹説を批判したり、また、武田明氏の著書『巡礼と遍路』について、星野英紀氏の手法批判と合わせて「民俗によるものだけに学術性が弱い」(186p)などと傲慢に批判している。
 近藤氏は多くの書物を覗き並べることで、学術性が高くなるとでも錯覚しているらしい。しかし私の感受性では、知的な鋭さや学問水準では、景山・武田両氏の方が遥かに高い。素直に言えば、やたらに多くの書物を覗いたとしても学術的価値は上がらない。民俗的手法は学術性が低くて、多くの典籍を並べて見せる手法の方に学術性が高いと信じているのが近藤氏の立場らしいが、驚く外はない。
 さて、室町時代後期に、四国を巡礼した人々がお寺に落書きを盛んにするようになる。こうして残った史料は極めて重要である。讃岐国分寺に残る永正10年の落書き、伊予浄土寺に残る大永5・7・8年や享禄4年の落書きがそれである。ようするにこの頃から四國巡礼が盛んになったのだ。
 もとより、それ以前から四国回遊の修行者は存在している。全国行脚の途中で四国に足を踏み入れた連中もあるだろう。全国各地を回国修行している連中は鎌倉時代以前から存在している。だからと言って四国遍路の起源をやたらに古く求めて牽強付会するのには同意し難い。

    6、不満・疑問・提言等

 ◎歩きたくない四国の道

(1)僧都川沿いの堤防道
 歩きたくない四国の道がある。その一つは40番観自在寺の手前、僧都川沿いの堤防道に設定されているルートである。自然との触れ合いも大切だが、風が強すぎて歩き難い。また、菅笠の最大の弱点は強風である。このコースよりも、城辺町から御荘町にかけての古い家並みの旧街道を歩くルートの方が良い選択である。但し、歩車道未分離だから交通事故には注意が必要です。

(2)女体山越えのハイキングコース
 88番大窪寺に向かうルートは幾つかあるが、譲波から太郎兵衛館を経て、女体山を目指す四国の道は、岩場では脚だけでなく両手をも使ってよじ登るハイキングコースである。しかし、これは歩きたくない四国の道だ。もとより、近世の遍路道ではなく、丁石などかけらもない。
 確かに山の頂上では景色は抜群に良い。しかし、近世の遍路道ではないので、大窪寺にはいきなり境内の真中に入ってしまう。ダイエット目的のハイキングコースとしては優れていても遍路道としては落第だ。
 昔のお遍路さんは相草、額、助光、槙川、兼割を経て堂々と山門から入っている。高い山々を迂回し、遠回りしつつもスタミナの消耗を少なくしていた。カウントダウンして行く丁石にはこみ上げてくるものがあっただろう。他所の丁石にはない特別な感情刺激がある。でもね、この丁石は既に潰れた旧遍路道から移し変えられたものです。不規則に適当に移設された感があります。
 ところが現代のお遍路さんに人気があるのは、ハイキングコースの四国の道のルートです。女体山から下って来ると宮崎建樹氏が引率するグループの金属札がやたらに目立つ。何故か現代のお遍路さんは「ダイエット型で山道の難所」を好む傾向にある。遍路道イコール山道と勘違いしている人が少なくない。
 古い家並みが残る旧国道・旧街道にこそ真に遍路道の味わいがある、という私の価値基準とは少し異なる。しかしこの私も、山中の信仰遺物や各種の石造物、金石文史料の魅力には勝てません。ようするにお遍路さんが歩いた道は全て遍路道となります。

(蛇足)
 女体山ルートでも、太郎兵衛館へ降りないで左折する水平のルートがあり、林道・自動車道につながっている。岩場に取り付くコースの下迄少し歩きますが、かなり近道になっています。目印としては数年前までは鳥居があり(女体山を拝礼する為の鳥居)これをくぐって行ったものだが、残念ながら今ではこれが撤去されている。太郎兵衛館へ降るということは、その分再度登らねばなりませんね。そんなしんどい思いをしなくて済みますよ。

 ◎良いお宿とは

 お宿にも、どちらかと言えば良いお宿と、泊まりたくないお宿の二種類があります。間違った常識や、知られていない良質なお宿もあります。
 旅行ジャーナリズムの定説では、「公営宿泊施設は安くて良好」と、されて来た。しかし、それは昔の話である。今や料金は割高で、食事の質が特に悪い。昔の公営施設の運営はお役所仕事だから赤字が出てもサービスが良かった。しかし、今のお役所は採算重視の方針です。
 となるとお役所仕事の悪い面ばかりが出てきて、宿泊客にシワを寄せるしか能がありません。特に、古い建物を建て直して新しくした所は最悪です。そのコストが宿泊客に被せられるからです。また、役人の智恵で食堂を民間委託するのです。「民間委託は良い事だ」というのが、彼等のドグマです。中間搾取される食堂業者は、そのシワ寄せを宿泊客に及ぼすのは当然でしょう。
 泊まるのは民宿及び良質な宿坊に限りますが、汚い国民宿舎等にはお遍路さん向きもあります。
 以下において私の独断と偏見でお宿の評価の一例をお示ししますが、バカな老人の寝言と聞き流してください。お宿の良し悪しは極めて主観的なものですからね。


 
おすすめのお宿
 
 まず、優れた情報が集まるお宿として、また、内容的にも良好な「岡田民宿」(阿波池田)や「民宿くもも」(土佐清水市)があります。宿坊では「26番金剛頂寺」のように食事も部屋も良質な所があります。「日の出民宿」(高知県大方町)の食事の評判は極めて高く、満足出来るものです。「民宿みま」0895-58-3231(愛媛県北宇和郡三間町。現・宇和島市、JR務田駅付近)は旧家の高級感と清潔感は女性遍路向きです。「小松旅館」(愛媛県周桑郡小松町、駅前通り三丁目、JR伊予小松駅の駅前を南へ6分位)は、それ迄のお宿で魚料理、お刺身に食傷気味だったタイミングに肉のスキ焼きが美味いのです。お肉屋さんが兼業している旅館だから、お肉がたっぷりあるのが嬉しいね。それに野菜の量がすごく多い。野菜不足気味だったから極めて満足。しかも料金が5250円と安いのです。安芸市内の西内旅館は高級旅館でバス・トイレ付の綺麗なお部屋ですが料金は6500円と安く、女性遍路にお勧めです。ようするに私が泊まった旅館・民宿・ホテルは概ね良好でした。

インターネット無料のお宿

1、国民宿舎土佐
2、北条水軍ユース・ホステル
3、レインボー北星
4、安芸市、BH弁長

 [ 民宿新設の適地 ]
 
◎必ず儲かる?話

 民宿開業のお勧めです。場所は愛媛県周桑郡小松町大頭で60番横峰寺の麓、遍路道に面した位置です。最適位置はR11号とR147の交差点付近です。最大の売りは「横峰寺を最も省エネ・安全に打つ事が出来るお宿」です。
 横峰寺を打つ最適ルートはR147の終点のトイレと休憩所がある登り口から登山し、又、同じ道を下山して来るのがベストです。(私の所要時間は登り1時間、下り45分です)
 山中での滞在時間が最小限で済むので、特に女性遍路にお勧めです。登り口の休憩所から再び大頭交差点に戻って来て、R11を右折し61番香園寺に向かいますが、大頭交差点から香園寺迄は約3、3kmの舗装・国道等です。
 ようするに大頭交差点と香園寺とは極めて近いお隣さんなのです。横峰寺をも含めた位置をヘアピン状か松葉状の3点でイメージして下さい。
 このルートは他のルートより30分以上は短く、しかも楽チンです。横峰寺から香園寺奥の院へ下るルートでは山中での滞留時間がお勧めルートよりも3倍位になります。石切り場・小松旅館ルートも似たようなものです。
 登り口の休憩所から大頭の間も広い意味では山に取り囲まれていると言うようなアゲ足取りはやめて下さい。周辺環境は全く安全・安心です。
 大頭に民宿を開業すれば、お宿に荷物を預けて往復出来ます。雲辺寺山麓の岡田民宿的な情報民宿として経営可能です。翌日のお宿には湯之谷温泉を勧めましょう。
 調理師免許は取得しておきましょう。夫婦で熱心に働けば十分な経営展望があります。家庭料理で良いのです。刺身もリネンも外注可能です。都市部での立地ですから、諸物品の調達も、アルバイトの調達も容易です。着眼点は「大頭と香園寺とはかなり近いお隣さん」です。
 以前、「平等寺付近で民宿を開業しては」というお勧めをしていたら、やがて山茶花の宿の開業が見られ、お遍路さんに重宝されています。「リストラなどクソ喰らえ」という意欲ある中年のご夫婦に最適です。
 

◎その他の開業適地

 「このところ歩き遍路が急速に増加しつたある」と、言われて八〜九年になる。今後更に四〜五年経過しても、恐らく同じ事が言われているでしょう。人生の通過儀礼は、昔は若者の世代で重要な意義役割があったが、今日ではシルバー世代に移行しつつある。現代のお遍路が増加しつつある最大の理由です。老人の通過儀礼は葬式だけと思うなかれ、再生・復活の通過儀礼に需要が出て来たのです。また一部の中年にも、新装開店型の通過儀礼の必要性も出て来た。
 その結果、とにかく遍路宿が不足していると断言して良い。もとより場所によってではあるが。この、お宿が不足している場所は、イコール民宿新設の適地です。リストラされた中年男よ、嫁はんの協力があれば、民宿かユースホステルを経営してみないかね。条件は、料理上手なことだ。多くの民宿では、刺身など料理の重要な部分は外注・出前を活用しているから案外簡単です。以前、平等寺付近に欲しいと書いていたが、やがてお寺の隣に「山茶花の宿」(0884-36-3701)が出来ましたね、待ってましたよ。
一宮寺から徒歩五分の所に「きらら温泉」(087−815−6622)が平成13年から出来ました。素泊り¥4750円ですが、食堂があります。
 41番龍光寺の手前の三間町、JR務田駅付近を望んでいたら、民宿みま0895-58-3231が出来ました。

   7、『四国遍路ひとり歩き同行二人(別冊、第5版)欠点と長所

 本稿は第5版への批判ですが、2004年4月1日に第6版が発行されており、従って記述内容は古くなっています。しかし、平成16年4月1日以前は、歩き遍路のほとんどの方は『四国遍路ひとり歩き同行二人(別冊)』(へんろみち保存協力会編、以下『別冊』と略称)(第5版)を頼りに歩いておられました。第5版本は多くの歩き遍路を導き助けており、その功績たるや大なるものがありました。しかし、その本を敢えて批判した視点が過去に存在した事実を残すためにこの項を削除せずに残しました。
 確かに、保存会それ自体はオフィシャルな団体ではありませんが、歩き遍路にとって貴重なマニュアルです。初めて歩き遍路を志す人にとって、極めて重宝されます。しかし、この本にはいくつかの欠点もあります。まず図版の地形図が見にくい、という評判がありますが、これには理由があります。根本的には国土地理院長の承認番号の記載が無いことが原因です。
 なぜなら、建前としては地形図を使用していないが、実質的には使用しているという変則性にあります。正式に承認を得ると費用が膨大になり過ぎて、従って本の頒布費用も高額になるので、それを回避するための苦心の現れです。
 この本の初版本を、下之加江の安宿で拝見しましたが、地形図は極めて薄く印刷してありました。「正式には図版に使用していないですよ」という意思表明です。しかしその後、版を重ねる度に大胆になり、地形図のインクの濃度が濃くなっています。等高線には標高の数字も明瞭に印刷されており、使うのに便利になっています。
 この本を見やすくする為には、地形図のインクを黒く濃くして、コース表示の赤線や赤破線はインクを薄く細くし、また札所やお宿等の説明記入の活字も、もう少し小さな明朝体にすればかなり改善されます。でも、これは原価形成を考えると無理な注文のようですね。
  コースに赤で距離表示の数字が入っているような工夫は他の著作物でも見られます。食堂やお宿、目印となる各種の公共施設名や地名等を地形図上に落とす手法も珍しくはありません。
 でも、巻末の「四国霊場と宿泊施設一覧表」は秀逸です。この本のオリジナルはここにあります。実に有益・有効なページで、最も著作性の高い部分です。歩き遍路の作戦計画に大きく寄与してくれます。足で書いた原稿には価値があります。
  しかし地理や近世史の専門書でない、という限界もあります。いわゆる歴史街道を貴重とし、また、それに拘る場合はへんろみち保存会のマニュアル『別冊』を批判的に見ることも必要です。研究水準は「四国の道」よりかなり劣ります。
 しかし、くどいようですが歩き遍路を志す方が、昔のお遍路さんが歩いた道に拘るのには、必ずしも賛成しかねます。というのは、拘ったところで拘りきれるものでなないからです。敢えて拘るという選択肢もありますが、どのような選択肢を選ぼうとも、歩き遍路の価値に無関係です。昔の道をなぞる方が価値が高く、新道を歩くと価値が下がる、と考えては大間違いです。
  それでも昔の道に拘るという方は、下記の記事を参考にして下さい。保存会のマニュアル『別冊』のコースと異なる部分ばかりを特集しました。とは言っても、まだまだ未熟な目で浅く観察しただけですので、異論や反論も多くあるでしょう。あくまで参考にとどめてください。もとより遍路道の基本原則である「近道主義・省エネ主義」に違反しています。

   ◎別コースの遍路道

◎清水往還道調査報告(平成20年10月31日調査)

1、中村側出入口
 旧・伊豆田トンネル(短い)の中村側出入口の手前約50mから右折し山へ入って行く道は第二世代の旧バス道です。このバス道をしばらく進むと第一世代の旧往還道の登り口があります(目印を付けましたが分かり難いかもね)。ここから約30分で頂上の旧茶店跡に至ります。この位置にある大きな道標は「足摺え、七里二十町、作州 粂北条郡、桑村、水嶋安衛 造」と読めます。茶店跡とその周辺には茶碗や皿の破片が多く散らばっています。茶店跡からしばらく進むと竹薮があり、ここから先は急な崖になっています。ここを降りるだけの冒険心に欠けたのは私の歳のせいです。崖下は印象的な杉林です。

中村側出入口の写真(下)
旧・伊豆田トンネル道→右折し→旧バス道から更に右折


2、清水側出入口
 市野瀬集落の道を先へ進みます。延光寺方向への成山・狼内方向へは左折せずに進みます。即ち第三世代の閉鎖・旧トンネル(短い)の清水側出入口に向かって進むと左折する道があります。そこが中村林道の起点です。この中村林道をしばらく行くと小川と直角に交差します。この小さな橋には欄干も無いので小川と気付きません。この小川の手前から山の中へノコギリ状に登って行くのが清水往還道です。この登り口は不鮮明です。しかもこの登り口のすぐ左隣に鮮明な細い道が水平方向にあるので間違い易いのです。小川を渡ったすぐ左側には小さく狭い台地があり、これが旧アカギ集落跡ですが、今は家も無く唯の田圃。この登りルートは悪路で少し危険です。このルートで山頂近くに来ると四国電力の鉄塔保守管理道と交差します。この鉄塔道は良路です。これから先はルート判別が困難な道ですが、印象的な崖下の林がその先に広がっています。

清水側出入り口の写真(下)
中村林道を進み、旧アカギ集落跡手前の橋を渡らずに右折し登る。



山頂、旧茶店跡の道標(登り口から約30分)
建物は無いが礎石や茶碗・皿等の破片が周辺に多く散乱

「足摺え、七里二十町丁。作州、粂北条郡、桑村。水嶋安衛 造」

3、所感
 旧遍路道の復元活動を欠いた世界遺産運動には疑問がありますね。又「トンネルが嫌い」と言うお遍路さんはぜひ清水往還を歩いて山越えして下さいよ。かく言う私は歳のせいで近道主義者ですから、トンネルも大歓迎なのが本音です。

☆別コースの遍路道

 へんろみち保存協力会編『四国遍路ひとり歩き同行二人(別冊)』(1997年9月1日発行、改定第5版)を参照する際のページ数のみを( )内に表示。
 本稿は第5版をもとに執筆しましたが、2004年4月1日付で改定増補された第6版が発行されています。従って内容は古い記述になっていますが、私の遍路道に対する視点をご理解頂く為に敢えて削除していません。最近(平成16年以降)は地元の熱心な人々が旧・遍路道を復元するケースが多く出ているので、ここでの記載部分の意義がほとんど無くなった。

 徳 島 県

@ 1番霊場霊山寺から2番霊場極楽寺へ向かうのに、旧街道を通るコース。板東谷川を渡る橋は以前は旧街道にのみ架橋されていたはずだ。旧街道から極楽寺に左折する位置には立派な門の石柱が建っています(97P)しかし、霊山寺の山門から極楽寺の山門へ広い自動車道を直線コースで行けば近道ですね。近道主義は大賛成、昔からへんろ道の基本思想です。 

A 7番霊場十楽寺を出て、チョッピリ山の中に入り、丘の上の墓を横目でみながら百米足らず、小さな厳島神社の所を左折し県道?を横断し高尾集落の中に入って行くコース(99P)。2番極楽寺を出発してすぐ墓の中へ向かうコースを辿るのならば、十楽寺を出ても同様な歩き方をされては如何がかな。厳島神社を左折する場所には道標が2基も立っている。一つは指し手の浮き彫りがあり「八ばん三十八丁」とある。他に「明治三十四年四月建之、京都独鈷組」とありますよ。

B 17番井戸寺を出発し恩山寺に向かう時、眉山越えルートを選択する場合の短いお奨めコースですが、いかにも阿波路らしいコースです。上鮎喰橋の手前のR192号にやってきた時、R192号を歩かず国府町和田交差点から南側の旧街道に入って下さい。地元の人々が「こくふ街角博物館」と名付け運営委員会も組織しておられます。まず「天狗久資料館」(月・火・水休館、午前9時半〜午後4時開館、無料)があります。国府の阿波木偶人形師「天狗屋久吉」の資料館です。途中の「カーテン資料館」は省略して、次に阿波藍染めの「しじら館」へ行きましょう。デザインの現代感覚には驚きます。しじら織りは素材が木綿でも高級感があるのです。私の地元「河内木綿」は庶民の衣料用で、野良着など、ゴツゴツした感じのもので、糸の太さも微妙に大小がありますが、それとは大違いでした。上鮎喰橋の袂の所に「野上神社」があり、そこに初代天狗久の碑があります。宇野千代著『人形師天狗屋久吉』のモデルですから、彼女の関与とその解説があります。このコース、阿波路らしい味わいがありますよ。

C JR地蔵橋駅付近の勝占町部分から始るコース。まず、新勝浦川橋の手前を徳島市立南部中学校の方へ左折し(地蔵堂があるよ)、そして、河向こうの18番恩山寺に至るコースです。国道55号を全く通らない長距離コースです(但し、二度横断する)(102P、104P)。 しかし、渡し船も橋も無いので一旦は遠回りして新勝浦川橋を渡り、すぐ左折し古い道標に導かれて恩山寺に向います(県道宮倉線)。道中の前原町には行倒れ遍路の墓が3基もあります。また、御杖の水等々古い遍路遺跡も残存。なお、国道55号を横断する個所には「四国の道」の石柱が立っている。

D 鉦打集落の中を通ったり、鉦打トンネルや福井トンネルを通過しない道も遍路道に違いないが、遠回りになってしまう(106)

E ごく最近、日和佐トンネル入り口のすぐ手前の旧国道を左折し、よここ峠に向うコースが地元の人により開発されたが、その位置よりかなり手前から国道55号を左折するコースとの連続性が推定されるが接続位置が特定出来ない。

F 星越トンネルを潜らずに山越えし、後世神社の入り口を経由し星越茶屋の手前で国道55号に出てくる部分(106P)。峠には三界萬霊塔の道標がある。側には日和佐町教育委員会が建てた木柱があり「文化財、旧へんろ道しるべ」とある。

G 国道から左折し、牟岐町の町の中心街へ入って行く。神社の所で右折し、八坂トンネルを通らずに四国の道を辿る。そして、草鞋大師を過ぎ、更に国道を右折してからは地元の人が「あじさいの道」と名づけた旧国道のルートを歩き、かずら大師の前を通る(110p)。なお、草鞋大師のかなり手前で、更に山の中に分け入るコースが示されています。地元の有志が標識で誘導しているルートで、草鞋大師の近くに出て来ます。しかし、かなり危険な部分もあるので、そこは避けた方が良い。

H 水床トンネルを潜らず、左へ迂回、山越えというより、岬回りのコース(110p)

I 海南町の浅川港を通る遍路道は、海岸寄りのコースではなく、神社の前を西に向かい、街中から淺川駅の横→国道を辿り、ほぼJR牟岐線沿いに大きくカーブしつつ南下し、やがては古い街並みを長く歩きます。旭町→飯持→海南町役場前→海部川橋と辿ります。このコースならチョッピリはずれて郵便局の所の接待所にも立ち寄り可能です。(111P)

J 宍喰町那佐地区神社前のルートで、小川(農業用水路)沿いに右折するコース(111P)

 高 知 県

@ 室戸岬へ向う途中の椎名集落の中を通るコース。集落のなかには海事代理士(上田豊年さん)の海事事務所があるのが、いかにも漁業の町らしいのです。事務所といってもありふれた民家に粗末な看板が掛かっているだけですが、集落に溶け込んでいます。椎名のように集落立地が入り江沿いに曲線を描き展開しているケ−スは四国には多い。しかし、今では入り江の出口部分を結ぶ道路が新設されて近道になっており、回り込むのは遠回りですから面倒ですな。でも、そこには人々の暮らしが生きずいています。例えば、甲浦港のような巨大港町も入り江の入り口に新設海上道路を歩いて先を急ぐと、港の人々と話も出来ませんね。

A 津照寺から両栄橋に出る路地裏の短いコース。

B 羽根川橋を渡り、喜楽食堂とENEOSガソリンスタンドとの間の道をすぐに左折し、公民館や八幡神社、そして鑑雄神社や羽根小学校の横を通るコース(114P)
 
この旧道には、まず考え込み、そして驚きました。この道を昔はバスも通っていました。その昔は集落の中心業務地域であった証拠だけが明確に残っています。村役の大きい屋敷跡に地方的著名人の顕彰看板も立っています。なのに妙に寒々としていてゴーストタウン的な死の町的雰囲気があり、家屋も新しいのが多くその数も多くありません。奇妙でチグハグな空気なのです。むしろ少し離れた国道沿いの方にまとまった集落があり、そこには活気があるのです。
 しかしヒアリングでその原因が判りました。昭和9年の室戸台風でほとんどの家が流され、一旦は死の町になったという痛ましい歴史と、その深い傷跡だったのです。このような地域景観は地理の学生の教材に最適で、ぜひ巡検先に採用したいものです。私も良い勉強になりました、歩き旅には素晴らしい収穫があるものですね。また来年もお遍路に出たくなる気持ちが早々と芽生えています。
 なお、羽根小学校の立地により、里道が付け替えられています。学校のフエンス沿いに迂回しています。

C 伊尾木郵便局付近(114P)。しかし、このコースよりも海岸沿いの堤防道を歩く方が良いかも知れません。貯木場構内を斜めに抜けて踏み切り(今年7月開業予定の3セク鉄道)を渡り国道に出て伊尾木川橋を渡りましょう。

D 安芸市内サイクリングロード後半の赤野休憩所そばの階段を上がり、国道の危険な横断歩道を渡ると旧道に出る。少し歩いて後、また国道を西に横断し、赤野郵便局や住吉神社前前を通るコースです(115P)

E 芸西村に入り、叶木→琴ケ浜→掘切と進む旧道には『宮崎建樹本』(115P)でも朱の直線(点線ではない)が入っているようだが、目印シールは貼られていない。更に、松原→長谷寄→十代の部分は、朱の直線も入いらず目印シールも貼られていない。和食には「送番所跡」碑(芸西村教育委員会設置)があり、松原の宿場町恵比須屋跡には山頭火の遍路日誌から該当部分を碑文にしている。今は老舗のお宿坂本屋がペンションとして残るのみ。名勝琴ケ浜松原として著名な場所である。

F サイクリングロード終点近くの旧豊栄橋からの旧国道も見逃せない。夜須町から香我美町に入り、「岡本弥太の詩碑」に至るコース(116P)但し、四国銀行前の「夜須村道路元標」の方向が東向きだが、本来は北向きでないとおかしいね。

G 須崎市の立目峠の手前、塩屋集落の中を通過し浦ノ内トンネルの手前に出るコース(121P)

H 須崎警察署からの並行コースでお馬堂神社前の道(122P)。(蛇足) 横浪スカイラインのコースや、須崎仁野線を歩き押岡コースを辿った場合、最近出来たばかりの「お馬トンネル」が近道になる。多郷駅方面に迂回しなくても「お馬堂神社」前の遍路道につながっている。但し、須崎市役所や須崎警察署を通り過ごした位置でつながっている。(わざわざ戻ってトンネルを往復するなどムダ足で確認、ああしんど)

I 上記より少し先のR56号並行道で、角谷トンネルを潜らない山越え道。風景が抜群(122P、124P)

J 仁井田郵便局前の短いコース(124P)

K 佐賀町市野瀬、河内神社前からの「四国の道」。荷稲を経てJR伊予喜駅に至るまで、国道56号線を全く通らない(横断しても)コース(125P、126P)

L JR有井川駅手前の伊田地区,及び、そのすぐ先の上川口地区の旧海岸線のコース(127P)有井庄司神社が旧入江の一番奥側に位置しているが、これは旧街道に面した立地で遍路道でもある。そんなに迂回・遠回りしなくても、入り江の入り口部分の国道・海上に架橋された橋を歩けば、断然の近道ですから、どうぞご自由に。

M 旧・新2本の伊豆田トンネルを通らない清水往還の伊豆田越えは、高群逸枝が「いみじき茶
  屋の駄菓子を食う」た茶屋跡迄は登れるが、清水側迄は歩いていない。今後の課題です。
  (129P)

N 足摺を打ち抜き月山神社回りコース途中の、トンネルを通過しない岬回りの四国の道数カ所
  (134P)

O R321号に並行している旧街道数カ所、不動堂、清王、及び大月地区の旧宿場町(135P)

P 39札所延光寺門前の古い道標から中山の西側の山の中を通り、押ノ川バス停に至るコース(136P)。かつてコース入り口には2本の道標があった。中務茂兵衛が後から2本目を新しく建てたのだが、今では古い方の道標が見当たらない。山の中の遍路道を出た所の集落中山地区の山本さん宅には、新しく立派な石の道標もあり、「昭和三十九年三月一日、宿毛六キロ、寺山一キロ、施主、滋賀県長浜、高田金二、中尾多七」とあります。近所の人の話によれば「昔は、祭りの時にお神輿が担がれてこの遍路道をこちらにやって来たのよ」とのこと。

(難問) その昔、長年にわたり四国遍路の札所霊場であった仁井田五社へのルートはどう扱いましょうかね。明治維新後の神仏分離で県社の資格を望んだ「仁井田五社」から仏像や仏具類利が岩本寺に移って以来、岩本寺が札所に変じてます。仕方がないので私は仁井田五社のある仕出原から岩本寺へのコースを辿っています。両方にお参りしているわけです。
 地元教育委員会が立てた木柱標識によれば「元、三十七番、福円満寺」とありますが、福円満寺は中世期に無くなった寺で、長曽我部時代の検地では既に存在していない。しかし、四万十川の上流部を往復で渡るのですから感激しますよ。川幅は下流部に比べて随分短いものですが、昔は橋が無かったので、荒れたり増水した時は子連れのお遍路さんの子供が流される悲劇が多かったという。旧渡し場は、現・五社大橋より少し上流の根々崎村です。香川の琴弾八幡宮も神仏分離で札所の権益を放棄したのを、今では後悔しているのでしょうな。

  愛 媛 県

@土佐から伊予へ国境の松尾峠を越えて下山したばかりの地域での四国の道。宮崎建樹コースは別ルートを辿っているが、四国の道ルートには春日神社もあり、神社の手前の共同墓地左側には行き倒れ遍路の墓もある。「明治十六年一月廿八日、山岡治右衛門、北海道十勝国河東郡音更村字中士幌、山岡鉄丸建」とある。

A 一本松町の上大道(うわおおどう)地区(大宮神社付近)が建てている看板によれば、久保江地区を通らない遍路道を図示している。四国の道のコースは旧宿毛街道と同一だが、それとは異なる遍路道なのです(139P)調査は来年の実践課題です。

B 40番観自在寺を出て調剤薬局を右折し、貝塚地区の八幡神社の前を通過し国道56号線に出るコースで、地元の人々による案内標識も存在する(139)

C 上記国道を少し歩いて後、旧道を左折し長崎地区の磯屋旅館前の遍路道を辿るコース(139)

D 八百坂の少し先の菊川小学校北東の四国の道(139P)

E 津島町芳原川沿い堤防道の「四国の道」を無視し、R56号東側旧集落内の旧道を芳原、米津から、岩松地区宿場町の岩松橋に至る長距離コース(141P)。下畑地地区の瓦製造工場の中ではプレス系の機械(刻印、整形?)の回転動力にVベルトが用いられていた。懐かしいVベルトが現在でも使われているのです。遠い昔の工場風景ではありませんよ。

F 津島町から宇和島市に入る個所ですが、新・旧2本の松尾トンネルを通過せず、旧トンネルの手前から右折、山越えする遍路道があります(142P)そこにある道標は「岩松町へ一里、四十番へ八里一丁、四十番奥の院へ二里二十丁」とあり、見事に大きい。県道に接続する手前に明治十六年九月に行き倒れとなった人の墓がある。付近の谷が産業廃棄物の埋立て処分場になっているのが見苦しいので残念ですね。
 岩松地区から野井回りのコースが古い遍路道だ、と言う人もいるが、旧トンネルの上にある大きく立派な道標や、行き倒れの人の墓を見るにつけても、宇和島入りのコースは複数の選択肢があったようです。
 大正四年発行、本田友三郎著『四国霊場順拝地図』(大阪府立中之島図書館所蔵)では、野井回りコースの道路幅員が広く描かれ、メイン道路になっている。しかし、細い線の遍路道が現在の二本の新・旧トンネルが通っているコースに引かれている。つまり、茶堂、上畑地、岩松、高田、松尾峠、祝森、のルートとなっています。少なくとも江戸時代の後期から大正時代迄のお遍路さんは、野井回りよりもこの近道ルートを通行していたようです。

(蛇足1) 
宇和島市祝森地区と柿ノ木地区の間には4基の行き倒れ人の墓が確認できる。その中の一つは「萬延二酉二月十日、豫州大洲臼杵村、南岳禅定門」とあるので驚きました。大洲なら宇和島の近くではありませんか、明日私が歩くコースですよ。在所の故郷大洲のお墓で葬って貰えないような、悲しく難しい理由があったようです。

蛇足2
「古郷ト(ふるさと)へ廻る六部は氣の弱り」『誹風柳多留』初篇)。お遍路さんではなく六十六部の事例ですが、物乞いをしつつ廻国した巡礼の感情を言い当てています。

G 宇和島市山際地区、及びJR北宇和島駅東側の旧道(143P)。この手前でも二ヶ所の旧道を歩きましたが、トイレにあせってメモを取るのを忘れました。 

H 十夜ケ橋からの堤防道の「四国の道」コース(147P)

I 内子町、内子高校前から旧八日市地区・近世の町並みの中心部を経由し、水戸森峠を越え、金栄山西光寺の大師堂から小田 川河畔へ出るコース(146P)
  松山街道に内子町教育委員会設置の「四国へんろ道案内」掲示板が数ヶ所もあり「思案堂・郷の谷川・内子・中町・坂 町・八日市・福岡町・麓川・中山川・水戸森峠・石浦大師堂・小田川畔」と、親切丁寧である。また、地元の人が平成四年に設置したの石製の遍路道標もある。大正四年発行の『四国霊場順拝地図』でも、水戸森峠越えのコースを示している。何故、これをへんろみち保存協力会が無視するのか、理由が判らない。

J 父二峰橋から宮成へ左折する道に明治八年の道標あり(148P)

K 小田町中田渡地区の新田八幡宮付近(149P)  

L JR菊間駅寄りの町場の中心部(154P)

M JR伊予桜井駅を過ぎ踏切りを渡り、鉄軌道西側の長沢地区の須賀神社前を通過。再度長沢踏切りを東側
  へ渡り、R196と隣接並行した旧道を辿るコースで、道の駅の裏側を過ぎてからR196につながるコース。途中には古い道標もありますよ(159P)かなり長いコースです。

(蛇足) 臼井の水を過ぎ、日切り大師の所に来ると、光明寺というお寺に立派な通夜堂があります。トイレのお世話になりました。ノートを見ると、多くの青年遍路達がお世話になっていたようです。横峰寺を攻略する最良の位置にあるので、今後の利用は多いでしょう。

N 64番前神寺から湯の谷温泉を過ぎて間もなく、西原地区の火の見櫓や神社・お寺等の前を通るコースで、そこからビニール・ハウス群の方へ向う(160P)

O 西條市亀の甲地区から、新居浜市桜木地区を通るコース。両市の市境ラインを跨ぐR11号北側の短いコースです(163P)

P R11号南側で、新居浜市と土居町の境界線のすぐ手前の集落、長野地区、道面地区を通過しR11号に合流したら土居町だった(163P)。このコース中にも行き倒れ娘の墓があり「文政八酉六月五日、備前下津井上町、松兵衛娘」と読めた。

  香 川 県

@ R192号北側の七田地区内の旧道を通過し、境目トンネルを潜らない山越え道で、お奨めコースです(164P)。古い道標もあり、また、地元の人が設置した標識もあります。
歩き旅の楽しみの一つに国境(くにざかい)を通過する魅力があります。同じ山中の国境でも江戸時代の大きな道標がある松尾峠(土佐伊予)のような国境も良いものですが、讃岐入り前に伊予から阿波へお国入りする際に通る「境目峠越え」も魅力的です。
山を登って行くと峠に出ますが、何とそこには集落があります。外見は一つの集落のように見えますが、愛媛側が境目、泉中尾集落で、徳島側が境谷集落です。集落の中を通る狭い道の中央が県境ラインなのです。その道を挟んで向かい合う2軒の家は、片や愛媛県で一方は徳島県に属します。そんな集落の人々と談笑する楽しみは歩き旅ならではのものです。「昔は宿屋があって栄えていた」と言う。

A 70番本山寺の先、豊中町の新、新屋敷、道上と、池の側を通る四国の道(166P)

B 豊中町と高瀬町の境界にある池の東側へ入って行く四国の道で、新国道を全く通らずに71番弥谷寺に行く旧道。何故か途中から宮崎建樹シールを見受ける(166P及び169P)

C 73番出釈迦寺を打ち、72番曼荼羅寺の前を通過し74番甲山寺に向う際、吉原郵便局前の狭い自動車道(歩車道未分離の為、危険だが車が多く通る)を全く通らずに甲山寺に向う遍路道の前半部分が存在している。後半部分は宮崎建樹コースに採用されているが、古い道標の指図に従がい田圃の中を通る前半部分も充分歩ける。

D 75番善通寺から76番金倉寺へは複数の多様な道を辿ったらしく、下吉田本村自治集会所の前から石神社の横を通るコースにも道標があります(169P)。また、そのコース以外でも、善通寺警察署のかなり手前から右折し、遍路道に入るルートがあります。保存会宮崎シールではマツヤデンキの所からの右折ですが、それよりかなり手前からのルートですよ。このコース途中にも古い道標があります。

E 坂出市東端、綾川沿い仏願地区の綾川酒造・カネダイ醤油醸造工場を過ぎてから、末包商店とまつもと商店の間を左折し(擁護学校の手前です)、綾坂峠を通り80番国分寺を目指すコースです(171P)。峠の麓には、南海道綾坂峠保存会の説明看板があり、「綾郡の中央の坂で、綾坂と呼ぶ。仇討ちそっと眺めし峠茶屋」とある。しかしこの峠の部分は、並行して走っている国道11号線の峠の位置と全く隣接している。しかし、降り部分でまた少し離れ、綾坂説教所跡を通過し、国道11号を横断し、やがて国分寺町に入る。なお、この国道11号を横断する位置で保存会の宮崎建樹コースに一致、合流している。R11で排気ガスを大量に吸うより、古い町並みを楽しむ方をお奨めしたい。ただし、地元の人はお遍路さんを地域内に入れず、集落の手前で国道方面へ行くように誘導する標識を設置しているので、この標識を無視しなければなりません。

F 80番国分寺から奥西地区、墓地、果樹園、へんろ坂大師、国分台、自衛隊訓練広場に至る町石道のコースです(171P)。この道こそ「遍路ころがし」の名にふさわしい。舟形町石が比較的にそろっており、ほぼ垂直に登山するので険しいが、眼下の神崎池が美しい。保存会宮崎建樹氏の標識は皆無だが、それ以前の先輩遍路先達の標識が若干残存している。山の中腹に「へんろ坂大師」の建屋や井戸が残っている。「へんろ坂大師跡」の石碑があり「平成七年国分寺境内へ移転」とある。自衛隊の訓練時は危険だからこのコースは廃止されたらしいが、惜しむべき遍路道である。しかし、山の道筋を読めない初心者にはお奨め出来ない。難しい道だから迷うでしょう。

G 83番一宮寺から84番屋島寺へも複数の選択肢があったらしい。県道172号を歩かず、三名町、太田上町、太田下町、伏石町、松縄町、西村、木太町と斜めに歩き、讃岐別院を無視して屋島寺を目指すコースです。田圃の中やマンションの前、鉄軌道の側等に幾つもの道標がある。実に愉快なのは「道引き地蔵」(跡碑)があって間もなくの所、追分けになった三叉路の地点に、「分かれ股地蔵」が出て来る(そこには「右屋島」の道標も並立)。このような楽しいものに出会えるからこそ、歩き旅の醍醐味がある。(170P)

H 84番屋島寺から甚五郎旅館、屋島ドライブウエイを横切り東側へ下るコースには宮崎建樹氏の標識もあった(172P)。コースの整備が昨年よりも良くなっていて、安全度が向上していました。

I 85番八栗寺を打ち過ぎ、大町へ左折し琴電志度線塩屋駅に至る四国の道コース。途中で遍路の父真念の墓があった牟礼町塩屋南三昧共同墓地の前を通る(172P)

(蛇足) 観音寺市の琴弾八幡宮も昔の札所です。今は69番観音寺の山門から奥の68番神恵院に歩を進める人も多いですが、私は、長い石段を登って琴弾八幡宮の社殿に詣でて後、展望台から観音寺港の全景と美しい海に浮かぶ島々の風景を楽しみます。昔の遍路道ですからね。その後、少し降りた所の68番神恵院に移動し、参拝を済ませ、更にその下に位置する69番観音寺に向うことにしています。

    8、遍路道探求の反省

 昔のお遍路さんが歩いた古い道にこだわる程馬鹿げた事はありません。そんな事はどうでもよいのです。古い道に価値があって,新しい道に価値が無いのではありません。お遍路さんが歩いた道ならどのような道でも等しく遍路道であり、道の価値に上下はありません。また、なるべく楽をして札所を巡拝することも重要です。
 高群逸枝が通過した時の熊井のトンネルは、明治38年12月竣工ですから、彼女にとってそんなに古いものでもなく、楽な近道だったのでしょう。昭和14年迄県道でした。
 でも、人それぞれの好みに従って無駄な事や、無意味な事に拘っても、その自由を他人が責める事も出来ません。そのような前提に立って以下のコースを強調しておきます。

 お奨めコース

@ 内子町の水戸森峠越えコース。  教委勤務が長かった同業者として、地元町教委の贔屓をしたい。

A 愛媛県と徳島県との県境の境目トンネルを潜らない山越えコース。

B 旧札所
 別格や番外の札所に参詣する人は多いのですが、江戸時代のお遍路さんがお参りしていた昔の古い札所にお参りするのも良いものです。新しい今の札所に隣接していたり、少し位離れていても足を伸ばす価値があります。
 
 ◎まずは37番札所の「仁井田五社」です。
 場所は土佐国高岡郡大字仁井田村小字宮内村で、四万十川の上流地域です。現在は四万十川に架かる五社大橋を往復しての参詣となります。下流部・中村市の河幅の広さに比べるとはるかに狭いのですが、この地で早々と四万十川を往復した充実感は快感です。
 昔は少し上流の根々崎村に渡し舟がありましたが、渡し舟に乗らず四万十川を歩いて渡る人が多く、河川の氾濫期等には流されて死亡するケースも珍しくなかったそうです。札所には今も五つの鳥居がずらりと並んでいます。五つの神社には日本古来の神道の神様が鎮座しておられるが、五社各々の祭神は本地垂迹の解釈で外来輸入仏教の仏様である「阿弥陀、薬師、地蔵、観音、不動」の諸仏とイコールとみなされています。
 さて、明治初期の廃仏棄釈運動は諸本に書かれている程には被害や影響は大きくありませんでした。しかし、お上や政府公認に弱いのが日本人の特徴です。明治政府の神仏分離政策により、官幣社とか県社・村社等の社格付与のヒエラルキー政策採用によって社格の付与政策が実施された時は、仏教側にも大きな被害・影響(宮寺の廃寺)を与えました。
 江戸時代以来神道と仏教は混淆していましたが「明治政府に従わないと社格を与えないぞ」というのです。仁井田五社も県社の資格が欲しくて神社に純粋化する事になったのです。そこで札所の権利を放棄し、別当(神主兼住職の仕事に当たる者)寺である窪川の岩本寺に本地佛(阿弥陀、薬師、地蔵、観音、不動)を移したのです。ですから新札所・岩本寺のご本尊は五体です。仁井田五社へ立ち寄るには30〜40分余計にかかりますが、行くだけの価値はありますよ。
 
 ◎次に57番札所の石清水八幡宮です。
 栄福寺に隣接の階段を奥へ上るだけです。山頂にある社殿前の広場(台地)から今治市内や瀬戸内海が広角に見渡せるのです。来島海峡・大橋、島なみは絶景です。一段と高くそびえる青色の三角屋根の塔は国際ホテルで、見事なランドマークになっています。周りを睥睨していると、まるで今治を支配するお殿様のような気分になって来ます。仙遊寺からの眺望は遠景に過ぎますが、この石清水八幡宮からの眺望では距離感が最適で仙遊寺からの眺望よりも優れています。伊予における唯一の石清水八幡宮との事です。男山のふもと(河内ですが)に住み、山城の石清水八幡宮迄毎日のように散歩に出かける私は、深い親近感を憶えました。
 
 ◎次に68番札所の琴弾八幡宮です。
 観音寺市の財田川の三架橋を渡った目前少し左にあります。69番観音寺の手前・隣ですが、社殿迄長い石段を登るのがしんどいですね。でも山頂の休憩所から見下ろす観音寺港は絶景です。難所の雲辺寺を打って来た疲れが吹き飛んでしまいます。そして道順に従い山を少し下ると69番札所の観音寺があります。元々札所であった観音寺が琴弾八幡宮の札所の役割をも引き受けたので、同一場所で二つの札所として機能する事となりました。院号と寺号を使い分けるという便法があったのですね。お遍路さんとしては一つの札所で二箇所の納経が出来るので歩かなくても良いから得をしたような気分になれますね。でも変ですね、一箇所で納経料を二倍分も支払うのだとすれば、大損ですがな。しかしお寺さんはニコニコですね。札所の権利を琴弾宮に戻してあげれば、お宮さんは大喜びなんですがね。

 B、お奨めできないコース

 @ 雨の日の添みみず坂

 近年、近世の往還道を復元したもの。しかし、排水目的で坂道に対し直角に排水溝を削除する工法が不充分の為、足元の条件が悪すぎる。それよりも大坂谷回りの方が歩き易い。『中土佐町史』303Pに「明治25年に添蚯蚓坂の往還が大坂谷に新開」とあるのは、歩き易さの為に大坂谷を選択した訳です。
 大坂谷の方が良いコースに決まっています。雨の日にわざわざ歩き難い旧往還道の坂道を選ぶことはありません。但し、添みみず坂の途中にある「寒巖妙性信女、俗名奈み」の墓は逸品で、道標も兼ねており、『中土佐町史』にも収載されている。

 A 宇和島入り手前の松尾峠越えコース

 宇和島市に入る手前で、新旧二本のトンネルを通過せずに古い遍路道を行くのは、随分遠回りになります。産業廃棄物の谷を見るのも不愉快です。だから、上下どちらかのトンネルを選ぶ事に賛成です。しかし、新トンネル通過の価値が低く、旧トンネル通過の価値が高いと言う比較論はナンセンスです。時間を惜しみ、なるべく楽をしたい(大切な事です)、そんな人は多少排気ガスを多く吸っても新トンネルを選びましょう。
   
 
[ 古い道を探す工夫 ]

 古い道を探すには、地元教育委員会等の歴史の道に関する先発研究の情報を入手し、二万五千分の一の地形図で判断しながら歩くのですが、現場での様々な判断も大切です。

  1. 「山の辺の道」の原則・・・・およそ日本列島の古い道は、ほとんど「山の辺の道」です。山裾の比較的高いところを通っています。そして、時代が下がるに従って山際から遠去り、低地に向かいます。なお、「山の辺の道」は固有名詞ではありません。私の住んでいる枚方では「山根街道」と呼んでいますが、同じ概念のことです。
  2. 道が見えなくても、人家や集落があればそこに通じる道が必ずあります。
  3. 局地的判断にとらわれないで、起終点を結ぶコースの中距離的判断の妥当性を忘れないで。
  4. 町場や集落を通過するコースでは、神社や旧家、火の見櫓、地域の集会所、村床、郷倉、消防のポンプ庫、等々の施設があれば、そこはその集落の中心業務区域です。それらは旧道のメインストリートに立地しています。だから、四国札所霊場の山門も必ず遍路道に面しています。
  5. 式内社前の道が中世の道である事もあるが、神社やお寺は時代によって移転しているケースも珍しくないので、要注意です。
  6. 堤防道が旧街道の場合、河川流路のコースが頻繁に移動していることをも考慮。
  7. 海岸線は現況の景観に惑わされることなく、古い時代のラインを脳裏に描いてみましょう。
  8. 峠とは「低い」所にあるものです。高い所ではありません。人々が高い山を越すのに、わざわざ高い位置を選んでしんどい思いをしながら汗を掻くものではありません。なるべく低い部分を狙って、最小のエネルギーで山越えして当然でしょう。だから峠とは「高い山の中でも、最も越えやすい条件の低い所」というべきでしょうか。地域間移動を考える時、最小のエネルギーで最も合理的な移動を考えるのは当然でしょう。
  9.  渡り鳥が山越えする際にはこのような低く安全な気流・気象条件のところを選んで山越えしており、このような場所を「鳥越道」と呼んでいます。この「鳥越」自体が地名化しているケースが全国各地に多くあります。
     これに対し現代の道路建設は「工事条件」が問題となります。許容性、難易度、可能性、経済性等が問題となります。だから多少は遠回りしても良いのです。トンネル手法もあるので、「歴史街道」のルートとは大きく異なります。
  10. サブ街道が本街道と部分的に並行しているケースも多い。特に河川流路のコースではそうです。
  11. 道標や石佛はしばしば間違って据え直されているが、古いお堂等各種民間信仰施設はやはり参考になる。
  12. 「お年寄りの言う事には疑問を持つこと」などと言えばひどく残酷な発言ですね。しかし、お年寄りには思い込みや記憶間違い、サービス精神から来る虚言もかなり見受けます。あくまで参考にとどめて複数のお年寄りに確かめましょう。
  13. 地名には、その土地の歴史が濃縮されています。地名にも配慮を欠かさないで。
  14. 古くからあった鉄道の踏切り(JR等)は重要です。旧道の既得権を尊重して、その旧道コースに必ず踏み切りを設置しているから、逆算的推理で踏切りから旧道を推定出来るのです。JR伊予桜井駅を過ぎてから踏切りを右折するルートでは、2ヶ所の踏切りが重要な判断材料でした。
  15. 里道はしばしば付け替えられていることがありますので、昔の姿をイメージして下さい。例えば、76番金倉寺から77番道隆寺への遍路道を、酒造会社・金綾の多度津工場が遮っていますが、昔の姿をイメージして迂回する外ありませんね。必ず付け替えられた迂回路がありますから、そこを歩くのですが、その際に方向感覚を狂わせないようにしましょう。保存会の宮崎コースでは、その迂回路を過ぎた位置からシールや案内標識を立てています。
     東北の一関市ではひどい事例がありました。里道が事実上ゴルフ場の中に取り込まれており、更に、ゴルフ場の管理棟オフイスのド真中のピロティ部分を里道が走っていたのです。既得権である里道をさえぎることもならず、ピロティ構造で対応したのでしょうね。里道の上には建物があるのですよ、ひどいですね。それから十数米の所に歴史を解説した標識と街道名が示されていましたよ。私の住んでいる大阪の北河内地方でもそれに近いゴルフ場があります。
  16. 『明治天皇御小休所』(御聖触、御芳触etc)等の石碑は旧街道のルート調査に有効
  17. 新国道の橋の付近に平行架橋されている古い橋は、旧街道のルートを明示しているケースが多い。
  18. 細くカーブの多い旧街道を横切って広幅員に新道が直線で通過するケースでは、必ず旧道通行者の権利保護の為、その交差点では横断歩道や手押し式の交通信号機が設置されているものです。この信号機には要注意です。
    徳島で勝浦川橋を南下し小松島市の恩山寺に向かう際のR55号線や、伊予・西条市の東端にある亀の甲地区など、実例が多い。
  19. 地形図を見る際には高架線と鉄塔の記入に助けられることが多い。特に山中では有益だ。

  [ 歩けない道 ]

 古い道でも、途中で歩けなくなったり、少しで途切れているケースが多くあります。45番岩屋寺を打ち、河合から高野へ向かう途中、峠道が崩れていて「四国の道」の道標が草むらの中に埋もれていたこともあります。近年の崩壊です。道しるべは迂回コースに設置されていました。また、65番三角寺からゴルフ場回りで椿堂に向かっていた途中にも、道の崩壊がありました。

 37番岩本寺から少し歩いた所に光生生コン工場がありますが、その手前でR56号を左折した旧街道を少し行くと、見事な石畳が敷き詰められた近世の道があります。笹に覆われていますが、R56を跨ぐ個所で途切れていて残念です。その道筋は東側山手の窪川生コン工場に続いていましたが、そこでも尻切れトンボでした。そうです、立派な石畳は旧街道の証拠でもあります。

  [ ややこしい里程 ]

 お遍路していてよくお目にかかる道標等の里程、これが一筋縄にはいかない。近世社会の通則では、1里が36町、1町が60間、1間が曲尺6尺。従って、メートル法では1町が109.09m、1里が3927mとなるはずである。ところがどっこい、そうはいかないのである。地方によっては、大里・小里があったり、「××の阿呆道」などと称して、かなり長い1里もあった。長州藩では、6尺5寸が1間であった。

 四国でも阿波の1里が48町とか51町であったり、土佐の1里が50乃至51町が1里のケースがある。これは長宗我部支配時代の遺制・残存物である。但し、伊予と讃岐の1里は36町である。このような古い時代の残存物に留意しながら、個別に文献や道標をよく検討する必要がある。例えば、『土佐札所道範(みちのり)之覚』(『憲章簿』第五巻、遍路之部、七、四国辺路改方並道簿切手等之事)では、「五社(岩本寺)より足摺山(金剛福寺)へ十八里」とあるが、この史料の1里は50乃至51町である。でないと現在のキロ数に近似しない。

 しかし土佐領内であっても、例えば、添みみず坂の文化五年の「俗名奈み」の墓、この墓は「村の安全祈願」から「道標」まで兼ねているが、この墓での里程表示の数字は1里36町の単位のようである。ケース・バイ・ケースで個々に計算比較せねばなりません。「此処より五社(岩本寺)へ四里」、「あしずり(金剛福寺)へ二十五り」だから、岩本寺から金剛福寺迄は21里となる。1里36町×109m09=3927m24、及び、1里50町×109m09=5454m5だから、21里×3k927m =82k472m、と、21里×5k454m =114k544mとなる。従って地形図上での距離90kmに近いのは36町で1里の単位のようでる。 

   9、旅の思い出

す ず な み・・・・・・・漢字では「鈴波」と書くのでしょうかね。鈴が鳴るような音?の出る波のようです。大地震の前日にやって来る前兆現象の波なのです。前日ですぞ、前日の地震対策を示した石碑なのでびっくり仰天。
 高知県大方町の井の岬温泉のすぐ近くに小さな金毘羅宮があり、その下には多くの行倒れ遍路達の墓があります。その傍に大きな石碑があり、碑文を見て驚きました。
         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    すずなみきたる時は
    ふねを十丁ばかりおきに
    かけとめおく嘉よし
安政元年甲寅十一月四日寿々
 なみ来たる  同五日七ツ刻大ぢ
志ん  大しお入浦一同  りう
 しつ是よりさき百四十年
より五十年まで用心寿べ志
為後世      記之
     松山寺住
          文瑞
          自作
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1854年(安政元年)大地震での教訓です。「すずなみ」が来たら翌日には大地震が来るので、舟を十丁程沖に出しておく事。今後140〜50年迄用心すべし、というのです。来年で150年目ですから、用心すべき期間は終了するのかな?(これ冗談)。将来の南海大地震でもこの前兆現象が起こるのかね?。
 でも、お遍路の道中で南海大地震に遭遇する可能性は十分あります。この地域ならではの海鳴りかも知れませんが「すずなみ」には気を付けましょう。


鐘 音 の 不 思 議・・・・お寺の鐘の音は遠く迄よく響き渡ります。だから近くで聞けば音が高過ぎるでしょうか。特に鐘楼の中で聞けば耳を塞ぎたくなる程に不快でしょうか。そうではありませんね、鐘楼の中ではかえって静かに聞こえるのです。その同じ音が遠くに迄届き、心地よく響き渡ります。鐘を造った匠達の巧みな技には驚嘆しますね。

周波数の使い分けでもあるのでしょうか。お遍路に出て初めて気付きました。多忙な現役時代の私の耳にはそれが聞き分けられませんでした。日本文化の奥深さに改めて感心しています。


女の立小便禁止・・・・・・62番宝寿寺です。女の立ち小便禁止の掲示があります。わが母親も終戦後の焼け跡で、上半身を90度位に曲げて立小便していたのを思い出した。戦後の女性の多くは和服姿だった。多分ノーパンだ。だからその姿勢で立小便が可能だったのだ。そんな昔の風景が田舎の寺にはかなり最近迄残っていた証拠だ。80〜90歳台の老婆には昔の習慣が残っていたのだ。禁止の理由は、女性の場合は用便後必ず紙を使用するので、男子小便器が詰る弊害がある。そこで老婆に禁止を訴えているのだ。
「女の人はここで、してはいけません!!」「この中にチリかみをすてないでください」とある。
太宰治の小説『斜陽』の中にも、貴族の奥様が庭園の築山で上半身を曲げて排尿している風景が出ている。


62番札所、宝寿寺、愛媛県西条市小松町新屋敷428

階 段 の 変 化・・・・・日本の神社やお寺は山の上にある場合が多く、階段を登る機会が多いですね。そして、この階段のステップの高さや幅が単純でなく様々に変化しているケースが多いのにお気付きでしょうか。地形の影響以上に変化が多いのです。一方、西洋式では直線・同一スタイル・幾何学的に単純な階段が多いようです。
 これは東西の作庭思想・美意識の相違だけから来るものでしょうか。実はそれだけではないようです。日本式階段では使っている足の筋肉が微妙に違う筋肉を使うようになっているのです。特定の筋肉を酷使しないように工夫されているが如しです。
現役時代の私には感じられなかったのですが、退職後、お遍路に出ると色々なものを感じるようになりました。


仁 王 様・・・・・・・札所において、誰にも邪魔されず至近距離で長時間観察出来る仏像は、山門の仁王様だけである。御本尊は秘仏であるらしく、お姿の見えない場合が多い。
 さて、仁王様の表情にはそこの土地柄・地方色がよく出ている。江戸時代の作品が多いせいか、ようするに田舎には如何にも田舎者らしい仁王様が居られるからである。「憤怒の形相」と言うより、散歩していて犬の糞を踏んづけ思わず苦笑い、そんな表情の仁王様が結構多い。作者(彫刻師)に地方人が多いからであろうか。しかし、四国のお寺さんよ、そのことを恥じる無かれ。むしろ地方色を自慢しましょうや。例えば、五台山竹林寺の仁王様のダンゴ鼻には愛嬌があって好感が持てます、近在のお百姓さんの姿そのものですね。室戸岬・最御崎寺の仁王様も愛すべき田舎のオッチャンでした。
 京都や奈良の有名寺院の仁王様を見慣れた目には、ついつい田舎者差別の偏見の色メガネで見てしまうせいだと反省してみたが、お目にかかるや否や素直な気持ちで大好きになれるのです。
 蛇足ながら、東北の「奥の細道」でお目にかかった仁王様の場合は地方色がもっと顕著であった。例えば、平泉の義経堂・宝物館に展示されていた寄木造りの仁王様には縄文時代の土偶の面影を感じるのです。土偶の作者の子孫の作品ならでは、と思えてなりません。仏像というより大型民芸品の趣で強烈な地方色を感じました。


血 ま み れ・・・・・・・・血まみれの犬が何十匹もいます。その鳴き声の凄さには圧倒されます。場所は室戸市に入って暫く歩いた所です。佛海庵の手前でR55号から脇の遍路道に入ったとたんに出くわしてびっくり仰天しました。「五楽会」の看板を掲げイノシシ数頭が飼育されています。寄せ集めながら頑丈な鉄格子等で囲われた小広場があり、中には雄の猪が居て、そこに猟犬2匹が放たれています。そうなんです、猪狩用の猟犬の訓練風景なのです。予め猪は牙を抜かれているものの凄い攻撃力には猟犬達もたじたじです。しかし猪は1匹ですが、犬は2匹ずつが何回も交代して攻めますので、次第に疲れて来た猪は犬の攻撃を許してしまいます。猪の急所は耳だそうですが、そこを犬に噛まれることもあるのです。でも、山中の実戦では滅多に急所を噛ませないそうです。この残酷な訓練風景には猟犬の飼主以外の見物人も多く、皆さん興奮気味です。お遍路7回目にして初体験です。「とくます」に早く着きたいはずの私も1時間近く見物致しました。去る3月23日、日曜日の午後の出来事でした。なお、近くの国道筋には「ペットショップ藤本の高知繁殖場」がありますが、そこの犬の鳴き声とは無関係です。

牛 の 墓・・・・・・・馬の墓(明治18年11月)」は長尾町の高地蔵堂の脇にありましたね。さぬき市の真新しい解説板も建っていました。大窪寺を目指して歩く遍路道の傍らですから目にとまり易いですね。しかし、ここでの話題は「牛の墓」なのです。「明治十五年八月十九日、牛の霊」という石の供養塔を引田町塩屋で見かけました。大窪寺を打ち、黒川温泉に泊まり、翌日、八十八ヵ所の総奥の院と呼ばれる与田寺に参詣し、更に霊山寺に戻る道筋です。この牛の墓も田舎の旧道ならではの風景ですね。戦後、私が小学校高学年の頃の道路では、舗装もされておらず自動車もほとんど見かけません、馬力ばかりでした。泥や牛糞・馬糞等の埃がもうもうと立ち込めていましたが、そんな光景が想い出されます。

猿 の 害・・・・・・・室戸岬を目指して歩いていたら、東洋町のゴロゴロ石の辺りで野猿の姿を見かけました(平成18年3月にも2度目の確認。2匹でした)。野生動物は必ず餌を求めてやって来ているのです。過去に餌が得られた体験が必ずあったのです。「猿が女性を甘く見くびり女性のお尻を追いかけた」(地元の人の話)事例もあるので要注意。
朝、海部町の旅館のお接待で戴いた昼食用のおにぎりをわざと食べ残して「可愛いお猿さんに与える」お遍路さんが居られないよう願います。将来、女のお遍路さんを見かけたら必ず襲撃される、という事態発生に現実性が十分ありますよ。大阪箕面公園ではたまりかねて猿を山奥に返す作戦に苦労しています。


イ カ 釣 り・・・・・・・牟岐町古江海岸の波打ち際の釣り人に何が釣れるのか聞いたところ「烏賊です」という。船で沖に向かわなくてもよいらしい。

地 蜂・・・・・・・四国各地の山道でよく見かけた蜜蜂の箱は、その多くが農家の副業の地蜂のもので、地域も固定しているそうです。他方、各地を転々とし広域集蜜している専門の養蜂業者の蜂蜜は洋蜜であり、生産性は高くても品質が劣り、地蜂の蜜の方が断然優れているそうです。しかし何処で売っているのか聞き漏らしました。

急 傾 斜 地・・・・・・・古い道ほど「山の辺の道」になります。従ってそこでの集落も崖下や山裾の斜面にへばりつくように立地しています。そこには必ず「急傾斜地崩壊危険区域」の看板があります。工作物等には知事の許可が必要です。四国が山国であることを痛感致します。

タ ラ の 芽・・・・・・・山道を歩いている時は憎っくきトゲトゲだが、てっぺんの柔らかい芽の部分はスーパーでは高値で売られていて、天婦羅が美味いそうです。しかも地面にブスリと挿しておけば簡単に栽培可能だという。家に持ち帰りましょうや。

マ ン ボ?・・・・・・私の住んでいる大阪の北河内に隣接の京都の田辺にある「マンボ」とは農業用水路が道路のかなり上部を横切って走っているコンクリートのおおきなU字溝である。その下を自動車が通っている。それと全く同一の構築物が室戸岬の手前の三津集落の中にある。しかし、それは農業用水路ではないという。山から流れて来た小川が流れているという。しかし、元は完全な山であって、そこに人が通るアーチ型のトンネルが掘られていたが、今は自動車が通る程道が広くなり、山は完全に両側に分断されてそれを繋ぐ役割のU字溝になってしまいましたという。正にその履歴は京田辺市のマンボと同じだ。こんな風景を見ると全く嬉しくなる、歩き旅の醍醐味だ。

山 頭 火 の 句 碑・・・・・寺の境内や遍路道等で山頭火の句碑が目立ち過ぎる。句碑の前では「俺が生きてお遍路していた時に、もう少し大事にして欲しかったよ」との呟きが聞こえてくるのだが、これは老人性の幻聴らしい。まあ、句碑のある所では彼は大切に扱われていたと思いましょうかね。

マ タ ギ ・・・・・・・・・ 27番神峰寺の手前、田野町の芝商店街に池地火薬店があり、ホーロー製の古く小さな看板が印象的でした。過日、11番藤井寺付近の川島でも後藤田銃砲火薬店を見かけています。後に延光寺に向かう途中の山の中,三原村で多くの猟犬を飼育している小屋を見かけました。また、64番前神寺から黒瀬峠を経て60番横峰寺へ戻り打ちした時も、山中で多くの猟犬の飼育小屋を見かけたことを思い出しました。そうです、四国では本職のマタギが暮らしを立てているのです。
 但し、猟師さんの多くは中芸地区五カ村(田野、安田、奈半利、馬路、北川)の町中に居住し,農業や他の職業と兼業され、狩猟シーズンにのみ活躍されるそうです。


餌 場・・・・・・・・ 昨年の秋、塚地峠を下りきってしばらく行くと、散歩していた地元のお年寄りの人が寄って来て質問されたのです、「山を降りた所の一軒家付近で蛇が出なかったか?」と。そのとたん、「ぎゃあー、逆じゃわいな、俺に聞かせて欲しかった」。かく言う私、蛇恐怖症人間なんですよ。二日前、その場所で地元のお年寄りが襲われたらしい。マムシはその餌場にいるので、水生生物のカエル等が多くおりそうな場所では注意しましょう。意外にも山中より、盆地の水田に注意したいものです。人間だって「餌場」に住んでいるのですよ。

侵 食・・・・・・・・ 37番岩本寺の手前、仁井田付近の短い遍路道を見て大笑いした。R56号神有バス停から西に左折し、すぐにR56に戻る短いコースである。R56に接続している両端には会社(四国三友化成)と民家があり、その部分の道の幅員は広く、一部はサービスヤード化しており、駐車されてもいる。しかし、それは両端の短い部分だけで、途中の水田の中を通っている部分は、著しく痩せ細っていて単なる畦道の趣である。だから大笑いなのです。元は幅の広い街道だったが、両側の水田がチビチビと旧街道を侵食し、痩せ細ったのです。R56が出来て以来、通行利用度が低くなったのが原因です。しかし、痩せ細っても消え失せなかったのは旧街道の中程に、どっかりと舟型のお地蔵さんが頑張っていたせいのようです。「寛政三壬四月廿二日、五社迄七十丁」と刻まれた道標を兼ねたお地蔵さんで、その座っているスペースだけがコブのように膨れ上がっているのです。残念ながらお地蔵さんを追い出すことは、出来なかったようです。なお、この旧街道とR56号とを直角に結ぶ短い道は、全く新しい道です。

葬 列・・・・・・・・ 岩本寺の手前、窪川町平串のイタリア料理店ノンナの前の短い遍路道で実にカラフルな葬列に出くわした。黒・白・黒三本線の幟以外にも、黄、赤、青と、色とりどりの幟が笹の先に翻っていました。葬列先頭の提灯とか、喪主が籠を被っているとかの光景には,左程驚きませんでしたが、疲れと空腹を我慢しながら、幟には見とれてしまいました。野辺送りの葬列というよりは、大阪で言う「練りもの」の印象です。
 この遍路道からR56号を横断し踏切りを渡り、真っ直ぐに進めば仁井田五社・福円満寺に向うコースです。


イ ノ シ シ ・・・・・・・・ 四国各地には何故か猪が多い、猪の本場です。鼻を鋤のようにして山道の木の根っこを掘り返しているのですぐ判ります。佐賀町を通過し、大方町に入ってすぐ井の岬があります。平成十年、トンネルを通らず岬を遠回りした時の事です。その道中に「イノシシが石を落とします、注意して下さい」という、注意を促す看板があるのです。丁度、山側が高い崖になっていて、その上で猪が暴れるのが原因らしいのです。まさか、頭上にイノシシが降ってくる事はないでしょうな。道路標識の一種として極めて珍しいので再度見るべく、平成12年秋に通った時は、その看板は新しく別の文言になっていました。

女 性 蔑 視・・・・・動物による農産物被害では、女性蔑視があるという。下ノ加江で農家のオバさん達がぼやいていた。猪にタイモ(里イモ)を、ハクビシンにウリ、キウリ、西瓜を、猿に栗、柿、桃,枇杷を、食べられてサッパリ駄目よ、と言う。猿など、女の私が追っ払っても逃げないのよ。しかし、亭主が姿を見せると逃げて行くの、癪にさわるね。でも、その亭主が農業に専従していてはメシが食えないという。

出 漁 時 間・・・・・・朝の六時過ぎ、民宿星空を出て伊布利港にさしかかると、港では未だ漁師さんが出漁準備でモタモタしていた。「漁師さんの朝はもっと早いのではないのですか」と聞くと、伊布利は定置網漁業で六時半出発だ。下ノ加江のようなソウダンガツオ?の一本釣りでは、朝の四時の出発です、と言う。その定置網も「今年はブリが不漁でね」と、顔を曇らせていました。

闘 牛 ・・・・・・・ 40番観自在寺を過ぎて峠道を歩いていたら、稲田水産という会社の前に闘牛の番付表と共に、巨大な闘牛を見かけました。真っ黒で1トンもあり、隠岐の島から来たばかりとの事です。明日の私の日程では宇和島市で宿泊予定ですから、宇和島に近いこの辺でも闘牛が盛んのようです。でも、一番驚いたのは、牛のペニスの先端に毛が生えている事でした。根元なら驚かなかったのですがね。しかしポスターを見ると、南宇和闘牛大会に参加の牛の所有者には、何故か大阪の人が多い。
 しかし平成15年4月6日の参加では大阪は24頭の内1頭だけでした。23頭の所有者は地元ばかりでした。長い不景気がこのようなところにも影響していました。


ト コ ブ シ ・・・・・・・ 足摺岬を打ち抜いて大月町との境界手前の大津でのことです。浜辺の民家前のムシロの上に以前に見たような海草が並べて乾燥させていたので、付近の人に対し「これ、テングサですね」と、知ったかぶりで言うと、「いや、これはフノリですよ」とのこと。そこで、その昔お袋がやっていた着物をほどいての洗い張りの風景を思い出して、「そうですか、着物の洗い張りに使いますね」と、再度の知ったかぶりで言うと、「いや、健康食品用です」と切り返されました。すごすごと退散しかかると、追いかけるように「テングサは向こうの波打ち際でお婆さんが拾っています」。「フノリはここの90歳のお婆さんが採取した分です」と言う。そこで、また余計な質問を試みた、「向こうの海で素潜りしている人は、何を採っているのですか?」と聞くと、「とこぶし貝を採っている」との事です。「ええっ?トコブシ?」、時間ばかり費やして前に進みません。私の野次馬根性、若い頃のまま変わりません。

昔 の 海 岸 線 ・・・・・・・ 地名に濃縮された歴史を味わいつつ歩ける場所が数多くありますね。高知から愛媛へ山越えする松尾峠の手前の小深浦・大深浦では、昔の海岸線は随分山側に寄っていたんだなあと、地名ならではの実感があります。今は陸地化している宿毛市内を見下ろしつつ、「そうだ、先程貝塚があったな」と、合点。

店 じ ま い ・・・・・・・ 御荘町と内海町の境界線、耳取峠周辺から室手海岸を眺めると、養殖真珠のイカダがびっしりと湾を埋め尽くしていた。イカダの過密感が濃厚で悪い予感です。案の定、品質劣化や生産性低下の悪循環に悩んでいた。翌日津島町を歩いていて、廃業したスナックが目立ったので、原因を聞いてみたら「真珠養殖業者の散財ブームが去ってしまい、店じまいしたのよ」と言う。景気の良かった数年前には「一晩に二・三十万円も使う人がザラにいたのにね、今はまるで駄目よ」という次第でした。

公 共 工 事 の ム ダ ・・・・・・・・ お遍路していると疑問の多い公共工事に、幾度となくお目にかかる。農林省への補助金申請書の事業名に、「農業構造改善」とか「農業近代化」というキイ・ワードが入っていれば、何でもまかり通るらしい。例えば、「**年度第*次農業構造改善事業、**稲作協業組合**施設・・・」てな具合である。これが打出の小槌である。39番延光寺へ向かう途中の、「三原村農業構造改善センター」の如きはその典型例だろう。鉄筋コンクリート、平屋建の大きな箱物で、村の特産品、土佐硯、三原茶、土佐寒蘭、姫盆栽などを展示販売する施設である。しかし、客は一人も居ない。トイレを借りたくて入って行くと、女子職員にお客と間違えられて大弱り。でも、勇気をふるって「実はトイレを・・・」と申し上げると、女子職員さんはがっかり。用を達しサッパリすると、又々好奇心が出て来て「役場の職員さんですか?」と聞くと、「いいえ、経営は第三セクター方式です」と言う。でも、債務保証は自治体ですわな。なお、この近くには地元ゼネコン「**建設工業」のハイカラなオフィスが新築ホヤホヤで輝いていました。
 平成13年春、この三原村でお昼の握り飯にパクついていた時、ふと見上げると三原村土地開発公社のバカでかい看板があった。村内に住宅用地を開発し(星ケ丘団地)売り出していたのだ。全51区画の内11区画しか売れていない。公社の債務保証をしている村当局は頭痛を起こしているに違いない。三月議会の答弁に苦しむ担当者を想像していたら思わず笑ってしまった。失礼、この俺はそんな世界におさらばして、のんびりお遍路させて貰っていますが、有り難い事です。


丸 亀 の 玄 要 寺・・・・・多度津に入り丸亀に向かうと「最早ここは京極家の領分なんだ」と、特別な感情に襲われる。丸亀に札所は無いが、京極家の菩提寺・玄要寺の門前では少し興奮する。いつも門扉が閉まっているが最敬礼しお祈りを捧げることにしている。
 実は、京極高次の正室で淀殿の妹・常高院殿松岩栄昌大姉の研究こそは私のライフワークなのです。彼女の木像や彼女宛の妹おごう(二代将軍秀忠の正室・崇源院殿昌誉和興仁清大姉)の手紙二点を発見したことなどを思い出します。岐阜で見つけたこの手紙も、維新まではここ玄要寺にあったものです。そう言えば直井武久先生や吉岡和喜次先生などはお元気なのだろうか?


ギ フ ト 専 門 店・・・・小さな町場でも目立ったのが「贈り物・専門店」である。引出物、内祝、出産返し、仏事、賞品等の店である。集落や町場の商業立地には大いに興味があって観察してきたが(実は二十年前に大店法による商業調整に苦しんだ経験の後遺症ですが)、微細なマーケットのように思えても、いくら消費を節約しても冠婚葬祭の消費だけは揺るいでいないのです、これは発見でした。
 通信販売は大都会よりも田舎の方が向いていそうですね、農協や特定郵便局と通信販売会社が提携して、田舎タイプの通信販売に向いているギフトのカタログに智恵を絞っては如何がかな。


葬 儀 社 と 結 納 店・・・・・どのような田舎でも、どのような不景気でも、人生の大切な二大通過儀礼のお店が不可欠で、営業可能なのです。四国各地でも葬儀社の看板がやたらに目立っています。また、田舎での葬式は寺や自宅で実施するので、葬儀式典会場の営業は都会だけのものと思っていたが、葬儀式典会場は田舎にもありました。これは田舎のコミュニティや家族が衰弱したせいでしょうね。
(愛媛県津島町、)

   10、宿泊日程表

 歩き遍路の最大の課題は、今日は何処に泊まるか、明日はどこに泊まるか、という作戦計画です。僅かな経験ながら、私の事例をご参考までにお示し致します。

   ◎平成19年逆打ち宿泊日程表2月21日〜3月22日
                                       29泊30日
大阪→バス・高速志度→百円バス・大窪寺(ここから歩き始める)
1、 あづまや      0879-52-2415
2、 きらら       087-815-6622
3、 四国健康村     0877-49-2600
4、 ほし川       0875-72-5041
5、 岡田民宿      0883-74-1001
6、 松屋        0896-74-2008
7、 小松         0898-72-5881
8、 コスモ・オサム       0898-33-0909
9、 月の家       089-854-2056
10、鷹の子温泉     089-975-0311
11、古岩屋荘      0892-41-0431
12、龍王荘       0893-44-4057
13、とうべや      0895-58-2382
14、かめや       0895-85-0007
15、嶋屋        0880-66-1100
16、星空        08808-2-8158
17、くもも       08808-4-1664
18、内田屋       0880-55-2241
19、あわ        0889-42-6915
20、喜久屋       088-852-0155
21、ビジネスH土佐     088-825-3332
22、西内旅館      0887-35-2014
23、金剛頂寺      08872-2-0378
24、とくます      0887-27-2475
25、内妻荘       0884-72-1674
26、坂口屋       0884-35-1201
27、ちば        08853-3-1508
28、植村        0886-78-0859
29、八幡(うどん亭)  0883-36-5327

   11、最後の遍路道

 [ 2丁石と1丁石の所在 ] 

 歩き遍路にこだわる方の中には、大窪寺を打ち終えて一番札所霊山寺迄戻り,納経帳に「願行成円」と書いて貰って後、高野山迄歩いて行かれる方が稀におられます。
 まず徳島港迄歩き、船で和歌山港に上陸後も泊まりを重ねて大和街道を歩き続け、最後は
紀州九度山の慈尊院から高野山丁石道を登山し、金剛峰寺を経て奥の院に辿りつき、そこでようやく旅の完結を実感されるのです。
 また、慈尊院迄は交通機関を使い、町石道登山のみ実行される方もおられます。
 しかしその際、慈尊院側の2丁石と1丁石を見落としていませんでしたか?慈尊院からの山道を6〜7時間もかけてやっと大門に到着し、そこから高野山町の街中の道を歩きつつ7→6→5→4→3丁石とカウントダウンし乍ら歩道の左側に建っている丁石を確認して大塔の手前迄来たはずなのに、何故か2丁石と1丁石が見当たりません。
 それもそのはず、その2本は歩道北側の柵の中の薄暗い林の中に隠れるように建っているのです。1町石の正確な目印は、おみやげ店「みず木屋」から道路をはさんで直角の北側・柵の向こう側の森の中に立っています。
  

   [ 町石道の意義 ]・・・・・鎌倉幕府による高野山厚遇

 高野山への道は何本も通っています。女人高野も多いですね、有吉佐和子の小説でもおなじみの慈尊院、この寺は弘法大師の御母堂の御廟所として良く知られています。そして、ここから高野山に行く丁石道こそがメインの表参道と言われています。
 これには十分な根拠があって、それが一石五輪塔の丁石(石卒塔婆)が続く山道なのです。平安時代の寛治二年には既に町数を記した木製の卒塔婆札が立っていた、という記録がありますが、文永二年(1265)高野山の僧覚きょうが発願し鎌倉幕府の安達泰盛等の援助を得て弘安八年(1285)に完成しています。
 確かに、丁石など全国各地にあって珍しくありません。頂上に著名な神社仏閣があるお山にはよく見られます。四国各所の遍路道でも数多く見受けました。その四国でも、多くは50cm位の小さな道標的な石柱か、舟形の石仏タイプの丁石で、欠番も珍しくありませんでした。ようするに目的地に向かってカウントダウンして行く登山道標・標石と言えます。
 
しかし、九度山町→かつらぎ町→高野町へと1町(109m)毎に連続する丁石は、部分的に乱れたところもありますが、慈尊院から大塔の手前迄180本(胎蔵界180尊)愛染堂前から奥の院の御廟迄36本(金剛界37尊に相当)もあります。
 しかも高さが抜群で3mもあり、その多くが文永年間など鎌倉時代の見事な一石五輪塔の卒塔婆です。
正和二年(1313)後宇多法皇が一石毎に拝礼しながら徒歩で登ったコースです。なお、1里毎に建てられた一里石はカウントアップ方式です。
 鎌倉時代の石造物は今日想像するよりも遥かに高額で貴重品だったのです。中には大正時代から現代にかけて製作し補充したものや、据え直し工事や修復工事の丁石も混じっています。
  また、石塔寄進者(施主)の中には名も無き庶民の少額寄進の集積でやっと建てた「十方施主」の石塔(121番)もありますが、その多くが鎌倉幕府の中枢の面々で、北条時宗(蒙古軍襲来時の鎌倉幕府8代執権)の名もあります。ようするに鎌倉幕府の高野山への肩入れの異様な程の熱意の強さが伺われるのです。

  [ 熊野詣の衰退および高野山の隆盛 ]

 鎌倉幕府が高野山に傾斜して行くきっかけとなったのは、北条時宗の時代からおよそ半世紀以前に起こった承久の乱(1221年)に起源があります。源頼朝死亡直後に、幕府の内部抗争の隙に付け込んだはずの後鳥羽上皇による武力倒幕の挙兵でしたが、京都方は大敗し,天皇・公家の勢力は急速に衰え、逆に鎌倉方は著しく権力を強めました。
  この時、熊野の衆徒が上皇方に味方したため、その中心人物の熊野権別当快実らが乱後に処刑されました。今も熊野古道として残っているこの街道筋に勢力を張っていた中心人物です。
  熊野は平安時代中期から上皇や貴族達が聖地視して参詣が盛んになり、やがては蟻の熊野詣と称されるようになります。北条政子も実子頼家・実朝の供養の為でしょう、熊野に参詣しています。
  しかし、承久の乱直後から貴族の巡礼道とも言える熊野参詣のコースは著しく衰退しました。後鳥羽上皇が建立した宿所の行宮の解体撤去を暗示する四辻頼資の記録も残っています(頼資卿熊野詣記)。ようするに、熊野街道も熊野三山も鎌倉幕府の目には反革命旧勢力の拠点と映ったのでしょう。
  その反動でしょうか、貴族の色にどっぷり染まったものは全て鎌倉の利益に反すると思えたからでしょうか、貴族から庶民への方向転換ともいえるような変化の流れが出てきた、と断言したくなります。とにかく承久三年以降の史料には頻繁に高野山を支配・保護援助する記載が多く見受けられます。
  北条政子が実朝や北条氏の菩提を弔う為に建立した金剛三昧院、この長老職の補任権も幕府は掌握しています。丁石道の一石五輪塔は承久三年から約半世紀も後に整備されていますが、鎌倉幕府による高野山厚遇振興の流れは重要なことです。後世においても、高野山は政治権力に対する中立性、アジール(聖域)としての性格を強め、北条氏滅亡後の南北朝時代でも中立主義を堅持しました。
 そして一旦方向性を見出した小さなこの流れは、政治権力による大きな支援が無くても広く庶民の支持を得て中世後期から近世にかけて更に大きくなり、その過程で新しく四国遍路も発生発展し、現代もなお庶民の中で広範にして根強い弘法大師信仰に膨れ上がって行った。ようするに弘法大師は承久の乱の戦火の中から再生復活した、と考えています。

  [ 弘法大師に対する庶民の支持理由 ]

 弘法大師の人気の秘密はその新鮮さにあります。いつの時代であれ最も新鮮でトレンディーな救世主であり、その時代の要請に対応し、人々の求めに対応してきたと言えます。弘法大師信仰は各時代において、その時々の民衆が作り出してきたものであって、修行を積み重ねた高位の僧侶や、難解な聖教を勉強してきた学者が作り出してきた訳ではありません。
 また、弘法大師の教えは大師が過去に完成し終えたものでもありません。未来社会においても、その時代の民衆が新しく創出していくものなのです。
 庶民願望はご都合主義そのものです。従って弘法大師への期待も、その時代を反映してご都合主義に振り回されるわけです。弘法大師が弥勒信仰の「現世に再来して衆生を済度する」下生思想に紛れ込んだりするのは、その一例でしょう。大師が掘り当てたと称する井戸は、各地に数知れず存在しています。高野聖の活躍も見逃せません。 また、実在した人物空海その人が信仰対象にまで高まったという点にも庶民性が窺われます。法然や日蓮とは一味違います。
 現世利益的信仰と言えば、観音信仰がその最たるものですが、庶民としてはリアルな存在感があって、ごく身近に親しめる仏様を望んでおり、それに応えたのが弘法大師でした。カトリックのマリア信仰の場合は、大衆の誓願と救済はマリア様に対しては、神様への「お取次ぎ」をお願いする、という手続きを厳格に踏んでいます。
 しかし、大師信仰ではお大師様自体がいつの間にやら仏様のごとくになってしまっています。トレンディな救世主、正にこのキイワードこそが後世のある時期に、その時代の要請に応じて四国遍路を生み出すことになります。

 
養蚕大師
「庶民の切実な願い事」は、過去、現在、未来のいつの時代でも存在する。もとよりそれには地方色や時代色があり多種多様だ。でも弘法大師は各時代々々にその多様な願い事を全て引き受けておられている。しかもその活躍場所は広い。四国・九州・中国・近畿の各地方では特に盛んだが、美濃地方においても活発にご活躍であった。子安大師には驚かないが、この養蚕大師には驚いた。今の時代には「派遣労働大師」や「下請け大師」の出現が待たれる。未来には宇宙空間にご出張されて「宇宙大師」としてもご活躍されるだろう。


 岐阜県瑞浪市大久後「養蚕大師」


写真の建物は観音堂。その横に「養蚕大師」が鎮座

[ 神道はMS-DOS ]

 生命の海≪空海≫(『仏教の思想9』宮坂宥勝・梅原猛共著、角川書店、昭和43年11月発行)今年の遍路はこの原点から再出発したい。昭和40年前後、清掃課の職員としてゴミ・し尿と格闘していた時代、公害が社会問題化した頃にこの本に出会った。助教授時代の梅原さんが私の恩師だったので親しみを感じ読んだのです。
 「人間中心主義思想の限界が自覚されて、もう1回自然というものから人間を見直す」(梅原)とか「自分の生命というものを大自然の生命の中で見出す」(宮坂)という言葉はその当時としては新鮮でした。禅宗など鎌倉仏教に関心を集中し、平安仏教=密教=貴族仏教=怪しげな祈祷仏教という偏見が修正されたものです。
 エコロジーが流行した時代でした。
水処理の専門家を志した私の好きな言葉は「物質収支」でした。日本固有の文化・神道(自然崇拝)はMS-DOSのようなものですね、その基盤上に輸入文化の密教がうまくはまり込み作動しました。私に密教の和合性が理解出来るかな。和合とか和解が来年の流行語にならんのかね。


    
12、四国の人々
  
  露骨な嫌味
・・・・・・でも信心深い人々

 平成9年の夏、徳島の20番札所鶴林寺を打ち終え、大龍寺に向かってい途中でした。「蜜蜂の箱に風を通しているのだ」と言って居られた60歳代後半?のオジさんに、しつこく絡まれたことがあった。
  「今どき、のんびりと歩き遍路が出来るなんて、恵まれた御身分ですな、お金が随分かかるでしょう」と切り出してから、次々と辛らつな言葉が飛び出してくるのです。「結構な御身分で」「羨ましい」「ご商売は?」「何をしておられるのか?」「どこに勤めていたのか?」等々。仕方なく「地方公務員を退職した」と言えば、「気楽な仕事で給料も高いし、それに退職金を沢山貰ったでしょう」と返ってくるのです。
 もうこの時分にはかなり頭に来ていたので、「オジさんの近親者にも一人位役場勤めの人もいるでしょう」と反撃に出ました。オジさんの言動から察するに、この地方の村の有力者のごとく思えたからです。案の定「娘が役場に勤めている」と正直な返事でした。
 とにかく時間が経過するばかりで、解放してくれそうにないので「34年も働き続けたのだから、これ位のご褒美は許してくださいよ」と言い残しつつ、逃げ出さざるを得ななかった。この後、三原村の役場付近でも「結構なことやな」と、嫌味な視線と発言があった。
 翌年の春、高知の31番札所竹林寺のお山を下りながら五台小学校の付近を歩いている時でした。私より少し年上らしい男性から、「このように石を敷き詰めて歩き易くしてくれているのは、誰のおかげだと思うか」「長年にわたり、多くの人が苦労を積み重ねたのが、判っているのか」と恩着せがましいのである。明瞭な言葉でこれ程露骨に言われたのは初めてであり、全く驚いた。「お蔭様で、感謝しています」と頭を下げる以外に方法が無かった。
 同じ年同じ高知の最後、宿毛市の宿屋でお会いした人から、同じような話を聞かされ、「成る程」と納得したことがあります。北海道の千歳市から来た区分打ちの50歳代の女性で、「へんろみち一緒に歩こう会」の旗印(負い摺り)を掲げた人でした。野菜を洗っていた女の人から「ええ御身分やな」とハッキリと嫌味を言われてびっくりしたことがあります」とのことでした。
  露骨な嫌味でなくとも、四国の人から「随分お金がかかるでしょう」というような事を、さらりと話かけられた経験者は多いはずです。歩き遍路に対し嫌味を言ったからとて、その人がいつもそんな事を言っている訳ではありません。
 事実、「良いご身分」とは、歩き遍路の持つ一つの側面を正しく言い当てています。でも、そのような嫌味を言う人は、一年の内364日は心やさしい人だが、たった1日だけは気分が滅入る日もあるのでしょう。しかも24時間そんな状態が続いている訳ではありません、一日の内ある瞬間だけのことなのでしょう。
  お遍路さんに嫌味など言う人は信仰深い人でない、と考えては大間違いです。実はそう言う人こそ信心深い人なのです。誰よりも自分自身がお遍路に出かけたくて仕方のない熱心な人なのです。でも、日々の暮らしに追われて一生懸命に働くことで精一杯、という人も多いのでしょう。「お遍路さんが羨ましい」というのは本音なのです。出掛けたいのに出掛けられない、そんな人の目の前でお遍路姿を見せびらかせるのですから、愚痴の一つも出て来て当然です。
 そうです、現代のお遍路はお金と暇に恵まれているという意味でエリートなのです。また、そうあるべきだと真剣に思っています。若いフリーターの中には、四国では簡単に無銭旅行が可能であるかのように安易に誤解している連中も見かけますが、「四国の人に甘えるのもええ加減にせい、しっかりバイトで稼いでから出直せ」と言いたくなります。まあ、かく言う私も四国には僅かなお金しか落としませんが、地元にはなるべくご迷惑をかけないように心がけますので、お手柔らかに願いたいものです。
 なお、前田卓(著)『巡礼の社会学』(西国巡礼と四国遍路)によれば、寛文6年より明治の初期迄の約3百年間における、四国の各霊場の過去帖をもとに、遍路死亡者の出身国別分布を調べたところ、ベスト5の中には阿波と讃岐の出身者が、また、ベスト10の中には伊予の国出身者だったという。ようするに、お遍路さんを最も多く輩出しているのは、地元の四国なのです。四国の人々はお大師さんの大ファンなのです。

 [ 車優先主義で、遠慮して歩こう ]

 常識とは逆の事を強調しますが、朝の通勤時間帯に限定した視点です。歩き遍路は非日常的存在だが、四国の人々は日常的存在です。この対立は鋭く敵対するものではありませんが、十分心がけておくべき事です。例えば歩き遍路にとって、早朝の通勤自家用車の猛スピードは大きい脅威です。
 しかし、鉄軌道網が不充分な四国の事ですから、通勤交通手段の主力は自家用車に頼らざるを得ません。通勤者には生活がかかっています、急いでいるのです、スピード違反を責めるのは過酷です、許してあげましょう。
 省みて私の現役時代、前日の疲れを残したまま朝寝坊し、大慌ての通勤でした。早朝の歩き遍路は注意しながら、遠慮気味に車優先主義で歩きましょう。とどのつまり、お遍路は遊び半分なのです。

  [ 自治体がガイドブック発刊を ]

 四国の道(四国自然歩道)のルート設定目的は、札所を目指す遍路道とはイコールではありません。しかし、歴史の道をルートに採用しているケースでは、遍路道と同一である場合も数多くあります。そのようなケースであるにも拘わらず、オフィシャルでない「へんろみち保存協力会」の目印が、オフィシャルな四国の道と異なっているケースが少なくありません。歩き遍路の希望としては、オフィシャルな出版物で遍路道の情報を知りたいものです。

 遍路道が通過する自治体の教育委員会等には、優れた情報が数多くあります。にもかかわらず、何故かお遍路さんはその恩恵に浴していないのです。行政としては信仰活動に介入出来ないとか、何らかの理屈があるのでしょうか。しかし、観光行政があるはずです。まして、ユネスコの世界遺産に立候補するのであれば「歴史の道」として、もっと多くのキメ細かい石柱を建てる等、努力して欲しいものです。自治体が推薦する歴史の道としての「遍路道」のルートを示したマニュアル発行を四国四県の広域行政の課題にして下さい。
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民家泊の制度化を望む(提言)

旅先の地方民家で一夜の宿を借る、中世さながらこれが日本各地で可能になる、というような時代の到来を期待するのは無理な願望だろうか。そのお宿はありふれた普通の家庭で、非営業・有償の民家宿泊でありたい。
 今、情報化社会の進展で触覚世界は逆比例的に縮小している。日本列島は全身への血流が悪くなり壊死・陥没地帯を続出させつつある。つまり、限界集落の増大とか、地方都市の衰弱現象がそれだ。この情報化社会の対抗文化として民泊運動を育て、触覚世界を広げたいと願っている。
 この制度設計は末端の自治体が担って欲しい。これが広がってくれば、地方・過疎地への刺激ともなり、活性化のきっかけになると期待している。もとより全国的な普及が望ましいが、取敢えずお遍路の盛んな四国の何処かの先進的市町村で突破口を開き、「特区」の指定が必要ならば指定を受け試行・実験してもらいたい。
 このお宿は旅館業法に規定された業態としての簡易宿所(民宿)ではなく、また、食品衛生法の適用を受けない事が肝要である。しかし、自治体による把握は必要である。簡単なルールもあり、市町村への届出・許可という手続きの必要性は肯定したい。市町村が許可した場合は「民泊の家」とでも表記したようなプレートの交付が必要だろう。
 民泊制度に予想されるルールは、非予約主義、素泊まり主義、一家庭一部屋主義、有料主義、任意受け入れ主義、連泊拒否主義、非アルコール主義、禁煙主義、等々であろうか。要するに一夜のお宿提供であり、冷暖房無しでも我慢しよう。一部屋に布団とお風呂さえ提供出来ればよい。洗濯機や乾燥機のような設備を望む人は営業施設の旅館か民宿を選択すべきだ。
 お宿を乞うた際、「今日のウチはダメだけど、お隣さんはOKかもよ」というようなやり取りを想定したい。宿所で美味しい夕食を食べ、お酒を飲みたい旅人は営業施設の旅館や民宿を選択すればよい。その昔、熊野参詣に出かけた地位の高い貴族達の旅路でも、実に貧しい地方農家に宿泊している。営業宿泊施設の歴史より、非営業民家での宿泊の歴史の方が遥かに古い。
 さて、旅人にとっては利点になるが、既存の民宿や旅館から反対される可能性がある。しかし、収益期待ゼロ・非営業性を強調した役割分担を強調して了解して頂きましょう。
 一方、民泊許容家庭の安全を確保する必要もある。手法としては、旅人に身分証明書の提出を求めてはどうであろうか。住民基本台帳カードや運転免許証等である。リスクへの配慮が過剰になっても困るが、地方民家へ被害を及ぼさない配慮は必要であろう。

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◎平成21年春遍路・・・不景気→民宿の客減少傾向
                   バスの台数も少し減ったという情報あり。

四国での先行現象 (平成20年)

 平成の新六十六部ともいうべき諸国回遊・漂泊者の全国的続出が予感させられます。今春の逆打ち遍路で見かけた30歳代?のお遍路さんの中には、菅笠、白衣、お杖、半袈裟(輪袈裟)4点の内、3点は無いという姿を多く見かけました。これらの若い人々は、今は四国を歩いているが、いずれ全国に散らばり、各地をを歩き始めるのではないかという予感です。尚、増加振りが目立った30歳代後半〜40歳代全般と思しき年増女性遍路は「クロワッサン症候群」の世代なのだそうです。女性の自立とかキャリアをけしかけられて、キョロキョロしている内に何も実現出来ず、いたずらに歳月を過ごした女性を皮肉っているらしい。
 四国は全国漂流の予行演習にふさわしい地域です。ホームレスではなくノン・ホーム(回遊生活国民、漂泊生活国民、ニュー・サンカ)定住否定国民の続出予感です。とどのつまり、国民に定住を強要する法体系もいずれ変更を余儀なくされるでしょう。

◎平成20年、春遍路での感想

1、札所の独占的地位は不変か?
 一般論ですが、競争原理が働かない業界は衰弱しますよね。
 現88札所の地位が不変・不動と思うのは疑問ですよ。もし、江戸時代の旧札所が本格的に復活参入作戦を開始すれば最初の地殻変動が起こります。特に岩本寺、栄福寺、神恵院の3札所は、足元が揺らぐ可能性がありますよ。そもそも札所の地位・資格はお遍路さんから与えられたものです。多分、四国の活性化はそこから始まるよ。

 30番安楽寺と善楽寺の札所争いは、ついこの間のことでしたね。

2、世界遺産運動への疑問
 世界遺産でも有形・ハードなものを指定対象にした美人投票的なものの場合には、四国遍路が馴染むのでしょうか。四国遍路はソフトな概念ではないでしょうか。また、ご本尊の価値の高さは信仰の濃密によるもののはずです。物体としての美術品的な価値とは異なるはずです。
この運動は「箔付け」狙いにあるかの如しです。勲章獲得作戦か、霊場の付加価値上昇作戦のように思えてなりません。
 四国霊場の価値はその霊性にあると思います。信者と信仰の質量が問われているはずです。この霊性の質向上に貢献しているのは歩き遍路の存在です。霊場ピカピカ作戦以外にも、横断歩道と押しボタン設置を行政に働きかける等、歩き遍路保護の視点をもっと強化して欲しいものです。某お宿のご主人は「運動には反対だ」と断言しておられましたよ。

3、若者の札所認識は番号認識
 何故か若者達の札所認識は番号認識である。寺号・院号認識ではない。「何番さん、何番さん」と呼ぶ。これにはある種の危険性を含んで居る。番号消化主義だから寺は何寺でもよい、順々に消化すべき番号こそが重要なのです。ここに落とし穴の一つがあります。逆の視点ですがそこに、新しい旅行商品の開発の可能性もありますよ。

4、平成の六十六部巡礼

 ニュー・ルンペンが全国的に出現して来ると、四国遍路のシエアが相対的に低下しますね。

5、ホームセンターでの販売の刷新
 「諸国漫遊コーナー」を設置し、夢を展示して欲しい。

 「ルンペンカー」のネーミングでビックリさせろよ。ルンペングッズでも良い。放浪用の便利商品の開発をし、夢を展示してくれ。既存の遍路用品をマネキン人形に着せるだけでは、札所の売店と変わらんよ。平成六十六部巡礼(平成のルンペン)の用品を集めて販売して欲しい。貨物用に改造した車イスなどはホームセンター側からメーカーに圧力をかけて製造させて欲しい。俺発案の「丸靴」(風通しの良い、前方ゆったり式)など、意外にも女子高生の間で人気が高まるかもよ。
 サルマタ不要の半パッチからリュック不要のベスト、携帯用・略式ご位牌や私の著書など、全て1箇所に集めたコーナーです。


  ☆略式御位牌の紹介
 小さな御位牌と言えども結構大きいものですから、お遍路に携帯持参するには不向きです。そこで私は縦9cm横3cm厚さ3mmの黒塗り板に金文字で亡妻の法名を入れて貰い、裏面の白木には墨書で安上がりにしました(2,500円)。小さな写真を裏面に同封し、それをコーティング封入して略式御位牌と致しました。軽くて薄く手帳に挟む事も可能です。両面黒塗りで金文字を増やすと金額アップします。
多宝堂(06-6771-4917、一心寺前)

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お大師さんブランドのカタログ普及

仮説
1、北河内地方で近世初期に形成された新・集落や新・街道における弘法井戸などお大師さんブランド。
2、カタログ販売で入手したかの如き「
広域同型性の流行現象」としてのお大師さんブランド。
3、コンサルタント的なセールスマンによるビジネスモデルの存在が推定される。

            
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(妄 想)
 歴史の断層写真を撮りたい。歴史を断絶させて広域・遠景観察の連続・断層写真である。
 近世初期における村づくり、街づくりから社会全体の新秩序の新形成は、多くの要素(支配秩序、生産関係、生産力その他)が
再構築・新編成されて発生している。もとより歴史研究ではタテの歴史・連続性を追跡する事は不可欠だが、断絶性を重視し、横に幅広い断層写真(特定時点での社会の総体)の全体像の中で、遠景観察する事も重要ではなかろうか。
 中世以来の固有の名称が近世において連続していても、機能や性格を全く新しく変化させて、新秩序の中で新しく変身したものがある。例えば「宗教勢力・教団」は、中世迄は支配者側に属し政治権力そのものであった。しかし、信長などに権力奪取されて後は被支配者側に転落し、異質な存在に変化している。この断絶性に拘りたい。同じ資金カンパの活動でも、宗教勢力が強い世俗権力を有した存在でのカンパ活動と、宗教的権威のみに頼った資金カンパの活動とでは違いがある。
 
 近世社会における人間の集団は、支配階級の武士階級及び定住の農耕者、商業者、手工業者、医師、教育者以外にも、広域圏で流動的に活動する広い意味でサービス業従事者が多く存在した。人間社会では遊芸者・情報伝達者・各種コンサルタントの存在が不可欠である。宗教的消費もニーズの幅が多様で、お寺さんだけでは対応しきれない。ルンペン渡世分野ながらも就労機会の創出で餓死せずに済んだ連中は数多い。
 生まれたばかりの新秩序の近世社会では各種の新規需要が発生した。時代は高度成長期の上り坂に差しかかっている。これに供給対応する側も激変せざるを得ない。回遊渡世も随分やり易くなった。いわゆる高野聖もこのような断絶性重視の態度で見直したい。中世期の高野聖と近世期の高野聖とでは、全く異質で別ものだ。

 このような思いは告白したくなかった。浅学菲才な私がそのよう発言をすれば、冷笑軽蔑されて当然である。現に高野山や弘法大師については、私は僅かな勉強しかしていない。しかも勉強をさせて戴いた諸著作はほとんどが五来重先生のものである。にも拘わらず欲求不満がブスブスくすぶる。でも、未だ作業仮説の域を出ていない。でも、失敗に終わりそうで恥じを晒すだけやな。

ルンペンとは・・・中世末期から近世社会にかけて活躍した。農林漁業に従事の農漁民など、手工業に従事の職人など。物品販売や流通業務等の従事者など。以上のような定住・正業の外側にハミ出た存在。つまり、河原乞食・遊芸の徒と同じようなレベルの回遊渡世者を「ルンペン」と称する。広義のサービス業務従事者でもあり、訪問販売人・セールスマンの側面もあるが、観念的消費・娯楽的消費・精神衛生改良商品の普及ビジネス。

弘法大師ブランド」は金剛峯寺・高野山一山の総勢力。「お大師さんブランド」とはルンペン達がカタログ販売的な手法の訪問セールスで広域圏に一斉普及させた新商品。精神衛生改良目的のサービス商品で「弘法大師堂」や「弘法井戸」などは近世・新時代の新新興集落の必需装置でもあった。高野山勢力のコミットはなく、ルンペン側の片思いだが、結果論的には弘法大師ブランドの価値を高めた。

◎広域同型の民間信仰・・・「弘法大師堂」や「弘法井戸」など。ルンペン達が同一ビジネスモデルでカタログ販売的に一斉普及したらしい。

◎広域・同型性の意味・・・弘法井戸や庚申堂などの民間信仰の遺跡類は現在も多く残っている。その説明版は驚く程同一内容で、地方的偏差が少ない。広域・同時期・同時発生したとでも言うのか。一つの信仰タイプが特定箇所で発生し、それが近隣に順次普及・伝播して行ったケースではなかろう。同じ゙ジネスモデルがルンペン達の普及活動で広がったからでないのか。「伝播」という現象は、一つのモデルが空中を飛んで行ったわけではない、人間が運んで行く以外の説明はあり得ない。ならばその運び屋がいたはずだ。回遊徒世のルンペン達ではないか。

◎狭域・雑多な
土俗信仰・・・イワシの頭?、石ころ、穴、大樹などが信仰対象。地域差、地方色に偏る。名称も千差万別。信者数は少数。

◎お大師さんブランドは近世初期に教団とは無関係な多数の独立愚連ルンペン(聖・ひじり)が高度成長期の追い風を背にして庶民に広く普及した。郡村(現寝屋川市)が近世初頭に整備されていった経過を考えると、この村の弘法井戸は集落の形成・整備過程と同時期と推定せざるを得ない。

◎飯を食う手段としてブランド僭称・パクリ・特許侵害・偽ブランド普及、果ては商品販売に至る迄、何でもありの聖渡世であった。(五来先生も言う「教理も哲学も欠き庶民願望に対応」)しかし、このルンペン業は多くの雇用機会(雇用ではなく労働機会)を産んだ。ルンペンでも食えるのだ。

◎真念による四国遍路商品の開発は秀逸であった。大量の回遊徒世・ルンペン達のビジネスモデルに追従する方式には限界があり儲けも少ない。これを突破して新分野を開発しようと試みた点こそが、彼の創意工夫への評価視点である。

◎所謂「霊場の写し」の地方普及も回遊渡世者のセールス活動の業績であろう。百万遍供養塔や光明真言塔のように同一類型で広域普及している理由としても、回遊徒世者による普及活動で説明するのは無理か?。馬頭観音碑、道祖神のタイプにまでルンペン達が関与していたかどうかは疑問である。

◎江戸時代に入ってから流行した庚申堂(塔)や、江戸時代の後期に新商品として開発された二十三夜塔のような商品もある。ルンペン渡世
で長期に亘り飯が食えたらしい。

◎権力者との摩擦を避けた穏健右派の高野山は、看板として掲げるのに無難だ。真言宗・原理主義の分派・根来寺教団は過激派だが、高野山は現代の労使協調派と同様に権力者には無害だ。

◎近世初期の一向宗は過激派の残像が濃厚で、ブランド利用は不都合。日蓮宗も不受布施派のような過激派ブランドが悪い印象を与えている。

◎天正9年8月、信長は各地で高野聖千数百人を処刑したが、これは浮浪者狩りのようなもので高野山教団とは争っていない。

◎近世初期には幹線・枝線の交通網の道が急速に整備された時期でもあったが、弘法井戸や大師堂は、まさにその形成時期の産物である。新興集落も出現し聖ルンペンの活動舞台が拡大した。

◎小野小町、和泉式部、西行、在原業平等々の遺跡(墓・寓居跡)と称する伝説をも付加価値として付録利用した(同一人の墓の多さを見よ、何でもありじゃ)。

◎民間信仰は現代でも盛んで一斉に広域で流行し易いのが特徴。近世初頭でも同じ。回遊ルンペンで飯が食える、というビジネスモデルが広域普及した。

◎(蛇足)現代の民間信仰の事例は、スポーツクラブ、エステサロン、コラーゲン信仰、ビタミン崇拝等々。コンピューターなるものも、民間信仰の神殿を荘厳に飾りたてる装置として重要な役割を果たしている。現代の聖(ひじり)はインストラクターなどと片仮名で呼ばれる事が多いが、ルンペンではないな。

◎高野聖の土壌
 現代の宗教の存在形式は宗教団体という名称がある通り(教祖がいても)個人帰属の人格概念で把握せず、宗教法人と呼ぶように没個性的な
法人格で把握されている。お寺を建築物概念で理解している。お寺とはハードなもので人格概念で把握されていない。昔は大名の知行が人格概念(個有名詞が所有)であったように、お寺も人格概念であった。だから住職の僧侶が宗旨替えすることも珍しくなかった。教団という非人格概念・法人格概念への帰属意識ではなく、個人の教えとそれを慕う弟子達、というにふさわしい側面があった。でも、集団勢力化することで権力形成が進むので教団化・法人格化への道を歩みがちだ。しかし、人格から人格へ相承・相続・継承される側面が基本原理なのだから、高野山の名声やブランドの勝手利用を許しやすかった。「俺こそが弘法大師の真の教えを学び継承した弟子だ」と自称しても、原理的には正当性がある。高野聖が渡世の手段に選ばれ易い背景といえる。
(蛇足)領分・知行・御家領が個人所有だったので明治の廃藩置県がやりやすかった。

高野聖の区分
 
Aグループ・・・勧進の縄張りがあるとか、宿坊の権利があるとか、高野山の中に活動拠点があり、組織化され活動末端細胞に指揮・指導が及ぶ直営・ネットワークに組み込まれているケース。
 
Bグループ・・・高野山ブランドを勝手に利用している多くの諸国回遊渡世のルンペン生活者。個人の随意営業。
 さて、ここでAとBとの中間発展段階のようなもの、たとえばフランチャイズ形態があれば、AとBとを下位概念とし、両者を踏まえた上位概念を設け、連続性と継続性を説明しても良い。しかし、AとBのグループには組織の遷移とか移行が認められない。本部・高野山の根拠地が何らかのコミットをし承認している中間形態のフランチャイズ形態は全く認められない(活動のマニュアルも、名簿の調整もない)。
 従ってAとBとを同一概念で連続的に説明する五来先生の論理に反対論が出てくる。西行は無頼の徒ではないが彼も高野聖だと言い放ったのは過剰発言。また、ファンクラブ的な組織関係にあったと言えるだろうか。この場合も高野山が積極的にコミットしていなければ要件を満たしたとは言えない。

◎真念
 真念を高野聖とは呼びたくない。いわば高野山ブランドを勝手に利用している多くの諸国回遊渡世のルンペン生活者の一人だ。弘法大師の看板を担いで渡世のため諸国・各地で庶民願望に形を与えブランド誘導している連中と同じだ。高野山への強い片思いは認められるが、高野山の既成教団とは活動接点が無い。唯、四国遍路に着眼し、商品化したのは彼の大きな功績だ。

◎評価
 回遊ルンペン達が、弘法大師の名声とブランド価値の高さに着眼しているのだから、その片思いは強烈であり、その結果高野山に多くの庶民を結びつけ、底辺の支持を拡大し、発展に貢献したとしても、高野山に活動根拠地のある諸活動と同じ概念で括るのは疑問だ。
 しかし、近世初期はいわば高度成長期でもあったから、高野山はその影響を大いに享受した。ブランド勝手利用のルンペン達の功績もあるが、時代の追い風効果の方が大きい。

◎東海道「歩き旅」の問題点
 
☆無政府・無秩序状態☆
   フオームがぼやけている。秩序形成・モラルが未成熟。東海道集会(準オフ会的?)も成功とは言えない。

1、ワッペンの欠如
 東海道を歩いている旅人がいても、それと識別出来るワッペン・その他の標示が無い。四国遍路の場合は菅笠・お杖・半袈裟・白衣等の内1〜2点でも持参しておればお遍路さんと識別可能だが、東海道の場合は唯の通行人かハイカーと区別がつかない。
2、歩き旅の「家元」が形成途上だ
 東海道ネットワークの会があり、松並木保存会等の史跡保存会の活動が活発で、更に個人の旅日記サイトも多数あるが、各旧宿駅の地域振興等に力点があり過ぎだが旅人の立場とは異なる。日本歩け歩け協会のセレモニー主義は一人旅への関心が薄い。また、歩き旅の旅人相互のコミュニティーの形成が不十分。四国遍路における串間さんのサイトに類似のサイトがあっても大黒柱に欠ける。串間サイトは一つの世界(お遍路世界)を構成しているが、東海道歩き旅サイトの場合はそれとは似て非なるもので、ワールドになっていない。参加者・市場占有率が低く、量が質を決定している。ワッペン、スタンプ及びスタンプ手帳等の欠如を見れば、「家元の欠如」を言い立てたい。
3、専門メディアの欠如
 旧宿場ごとに地元宣伝の各種案内・PR印刷物は多いが、歩き旅の旅人を主読者にした活字メディアは育っていない。採算が取れないのだろう。取敢えず「ワッペン」発行(「東海道徒歩旅行」だけでよい)及び「完歩証」発行サービス、そしてスタンプ手帳発行から営業したらどうかいな。
4、道標不足(道順指示シール・先達札等の欠如)
 四国遍路には昔からの道標も含め、四国の道など各種道標が多い。更に、保存会・宮崎さんのシールや標識のようにきめ細かい親切には感激する。だから初心者のお遍路でも歩き易い。しかし、東海道ではそれが決定的に不足している。理由は各々の街の地元・地域振興には関心があるが、歩き旅への関心が薄い証拠でもあろう。歩き旅の「旅人コミュニティー」を運営する家元が形成途上にある証拠だ。
5、タイムトンネル号の運行
 各宿場ごとに短距離でも良いから道案内や歴史ガイドをしてくれるボランティア活動があれば理想的だが、これは高望みでしょうね。
6、妄想力を鍛えよう
 東海道は日本史のセントラルステージである。街道では良質なシーケンスが次々に展開・変化するので、さながら日本史のおさらいをしているが如し。決して弥次喜多道中にとどまらない。但し、この楽しみは脳味噌の中での観念上の遊戯であり、歴史に興味を持った人だけが実行可能。
7、初心者向き
 四国遍路に比べて歩き旅への参加が気軽に出来る。旅の日程設計の自由度が高い。区切り歩きが容易で、スケジュール変更にも苦労しない。参加、中断、帰宅が容易である。
四国遍路は修行性・宗教性が濃厚で歩き旅の困難性が高い。東海道歩き旅に比べて心理的負担が重い。四国遍路はエリートで、東海道歩きは初心者・素人のイメージ。
8、宿泊所情報の欠如
 東海道の場合、旧・各宿駅のほとんどで都市化が進んでいてビジネスホテル等も多い。だから予め予約しなくても宿泊所に困るような事が少ない。交通機関利用でお宿のある所迄行くのも容易だ。しかし歩き旅の初心者としては、お宿情報が記入された地図のガイドブックを望んでいるだろう。
9、お宿における歩き旅情報の蓄積・常備を望む
 珍しいケースだが、東海道の旅館の中には印刷された旅日記スタイルの道中記・冊子の複数常備が見られたお宿もあった(岡部宿・きくや旅館)。この点では四国の遍路宿と類似しているが、お宿としてはこのような配慮に極めて無関心である(送付を受けても廃棄処分したらしい)。宿側に歩き旅への問題意識が無く唯の変人扱いか?
10、旧宿場スタンプの常備
 宿場の中にはスタンプを備えた所もあったが、全宿場で常備して欲しい。「本陣」等の石柱標示しかないような旧宿場が多かったが、その付近の商店等で押印できるような便宜を配慮したらどうかね。東海道歩きの場合はスタンプラリーでもかまわないよ。

※ようするに一口で言えば「家元」が不在だ。全体の統一がとれていない


  東海道 宿泊表   平成21年4月

11日 草津宿   自宅へ帰る
 (中断)
15日 水口宿   あや乃旅館           ¥5775円   0748-62-0998
16日 亀山宿   亀山第一ホテル        ¥5000円   0595-83-1111
17日 桑名宿   桑名スーパーホテル        ¥5280円    0594-22-9000
18日 池鯉鮒   アイリスイン知立          ¥4980円   0566-85-5222
19日 吉田宿   ジエントリーホテル豊橋       ¥4980円   0532-53-8811
20日 浜松宿   くれたけイン・セントラル浜松   ¥6200円   053-454-1211
21日 掛川宿   ターミナルホテルkakegawa     ¥5775月
   0120-247-214
22日 岡部宿   きくや旅館            ¥7000円   054-667-0151
23日 興津宿   駿河健康ランド          ¥6090円   0543-69-6111
24日 沼津宿   BH福の家            ¥3500円   055-951-4568
25日 小田原   BHおかもと           ¥5670円   0465-22-5963
26日 藤沢宿   B平和旅館            ¥4700円   0466-23-3745
27日 品川宿   品川プリンスホテル         ¥7143円
   03-3440-1111
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  中山道 宿泊表   平成21年2〜3月
2月14日  JR瀬田駅迄   帰宅
2月15日  武佐宿迄    帰宅
2月16日  醒ヶ井宿迄   帰宅       (中断)
2月19日  美江寺宿迄   帰宅       (中断)
2月22日  JR各務原駅   帰宅       (中断)
2月24日  御嶽宿迄    電車で可児市に戻り、サンシュウホテル泊 \4150円 0574-62-4545

2月25日  中津川宿迄   帰宅      (中断)
2月28日  馬籠宿      馬籠茶屋    ¥8400円    0264-59-2648

3月 1日  JR大桑駅迄   帰宅       (中断)

3月23日  上松宿     わらび荘     ¥6500円     0264-52-3848
  24日
  奈良井宿   長井旅館     \4200円素泊   0264-34-2624
  25日  下諏訪宿   ホテル山王閣
  26日  芦田宿    金丸土屋旅館    \7000円    0267-56-1011
  27日  軽井沢宿   サンシャインホテル     \6300円    0267-42-5259
  28日  板鼻宿    KAWA          \6300円    027-381-1159
  29日  深谷宿    グランドホテル深谷    \6500円    048-571-2111
  30日  上尾宿    ホテルメイツ上尾      \6500円    048-777-2244

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