大野 正義  (平成20年8月18日) 25,1124追加
                                     
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   V、「お上権力とは」

(1)「お上」とは

 日本国民には所有者がいる。つまり、国民はその所有者の持ち物である。自由に処分可能な
資源・消耗品でもある。天皇に主権があった旧憲法時代の日本国民の所有者は天皇であった。戦後の新憲法下では、官僚・財界・保守政党により共同所有されている。日本国民は彼らの資源に過ぎない。戦時中のばあいは赤紙一枚で徴兵し、人間資源を大量に消耗した事例がその所有と消費の構造を証明している。現在においては、不安定雇用により人間資源を大量消耗している状況にあるが、所有者が存在していることの実感が薄い。しかし、その消費実態から逆算視すれば所有者の存在が鮮明に浮かぶ。
 所有者にとって日本国民は資源・消耗品に過ぎない、従って「租庸調」の時代から、税は人頭税であった。労役負担という税は人頭税の典型例でもある。
 このような所有の構造は徳川時代以前から継承されている。幕藩体制下での藩主と家臣の関係、あるいは藩主と農民との関係における所有構造でもあり、その構造を明治以降も継承してきた。旧幕時代には所有者の藩主が死亡しその跡目が欠落した場合などにおいては、家臣達は自動的に浪々の身となった。
 従って所有されている国民は所有者との関係では「
他律人間」となる。だから、所有者・権力者側に対して「包括的・無限責任」を求める非所有者の立場が今だに強調されて、「政府・行政の責任」追求が厳しい。
 この立場からすれば、仮に、徴兵制が実施されても文句が言えない。しかし、現在のように徴兵制が無い場合は、「お上」に包括的・無限責任を求める立場にチョッピリ弱さがあるのは事実だ。
 さて、今の自民党政府は「お上」の無限責任制から抜け出るべく努力している。もし、真剣にそうしたいのなら憲法改正案のベクトルは全く逆方向であり矛盾している。日本の支配者が人民に改正憲法を押し付けたいなら「包括的・無限責任」の原則を甘受せよ。それとは逆に自助努力とか、「自己責任」を口にするならお上の権力を強化してはならない。憲法改正を考えるのは差し控えよ。
 ええとこ取りをするな。所有者の立場は不変のままで包括的な「無限の
責任」は放棄したい、でも所有権は強化したい、という意図が見え見えの憲法改正案はあんまりですぞ。

(1)他律人間


 欧米先進国の場合は「公共観念」が発達しており、国家というものも皆で共同して作り支えている。主体性を確立した個人、自律人間が基本単位として国家を形成しているから、主権在民も本物で税金も「出す文化」である。この場合、自律人間はキリスト教的な神を必要とする。
 これに対し日本の場合は主体性の無い他律人間を基盤にしており、公共の観念が未発達で「お上観念」に覆われ支配されている。国家は自分達で作り支えているものでなく、絶対的強者が所有・支配する国家である。国民は建前上は「選挙民」であっても「国家意思」の形成過程から疎外されている。国家意思の形成は所有者が独占している。その支配権力は「政・官・業」の複合体である。権力者達は公共の看板を掲げててはいるものの、利益誘導により税金を貪っている。このような被所有者・他律人間にはキリスト教的な神を必要としない。

(2)自律人間


 欧米先進国の場合は「公共観念」が発達しており、国家というものも皆で共同して作り支えている。主体性を確立した個人、自律人間が基本単位として国家を形成しているから、主権在民も本物で税金も「出す文化」である。この場合、自律人間はキリスト教的な神を必要とする。
これに対し日本の場合は主体性の無い他律人間を基盤にしており、公共の観念が未発達で「お上観念」に覆われ支配されている。国家は自分達で作り支えているものでなく、絶対的強者が支配する国家である。国民は建前上は「選挙民」であっても「国家意思」の形成過程から疎外されている。国家意思の形成は支配者が独占している。その支配権力は「政・官・業」の複合体であろ。権力者達は公共の看板を掲げててはいるものの、利益誘導により税金を貪っている。
 このような被支配者・他律人間にはキリスト教的な神を必要としない。「お上文化」の根底には天皇制文化があるので、日本はでキリスト教は永遠に不振である。の天皇制文化があるので、日本はでキリスト教は永遠に不振である。

郵便貯金こそ「お上」のカタチ 25,1124追加

 お上への信頼は日本国の最上の美風であり、諸外国に無い本邦が唯一誇るべき無限資産でもあった。その具体形・現象形態が、お上への信頼にの上に築かれた郵便貯金制度であった。最も日本らしいモノを唯一つあげよと言う問に対する答えは郵便貯金制度である。日本社会の根底を支え続けていた。
 米国は竹中や小泉を使ってこの強固な日本的根底を爆破した。
 確かに郵貯の金を利用していた大蔵官僚や背後の政治家による金の使い方には問題があり過ぎた。その弱点を攻撃して爆破を仕掛けられた。しかし、まだ完全に息の根が止まってはいない。トドメは刺されていない。この際、皆で反省し、郵貯を復活させよう。「お上」を再建しよう。そうすれば日本は財政赤字の負担にもっともっと耐えうるわいな。

◎税金観と「お上」

 さて、お上の支配下では税金は「搾り取られるもの」であり、租税回避・脱税文化に罪悪観がない。支配者の強権的搾り取りに抵抗し緩和努力するのは、被支配者の正当な自己防衛権の発動の如くみなされている。ようするに支配者への不信が租税回避・脱税文化のベースにある。「自己救済主義→高貯蓄」の伝統が根強いのです。日本の租税文化では、良い政治と良い支配者とは、低い税金の政治と不可分です。仁徳天皇の仁政以来の伝統文化です。政治は上位・外部の装置と見なされ、「租税回避による高貯蓄」という日本人の行動様式に文化的正当性を与えています。もとより現代税制度の建前論では、脱税は制度的・法的には「不当・不正」なのですが、深層・本音の部分では正当なのです。
江戸時代の農民は租税回避・脱税行為でこそ生き延びる事が可能でした。高い税率に対抗し、課税ベースを縮小する事で死なずに済みました。今でも土地の公簿面積と実測面積とを比較すると公簿面積の方が少ないのです。江戸時代の税文化の名残り・後遺症です。建前と本音を分裂させ使い分ける日本文化の特徴が覗えます。今でも企業やプチブルは「租税特別措置法」で課税ベースを縮小する手法の名人です。自分だけは税金を軽くせよ、他の奴は重税でも構わんよ、と狡猾なのです。これには自民党から共産党まで全政党が賛成していますよ。
にも拘らず日本は「中福祉・中負担主義」の旗を建前として掲げ、選挙民を欺いています。介護保険制度の発足がその例です。安易に財源調達出来るので、やがては行政側と社会福祉関係の学者・専門家連中の悪巧みによりひん曲がって行きます。先発の国民年金や健康保険と同じ運命です。

◎所得把握への抵抗

租税回避・脱税文化の日本では、所得を全て把握される事に凄い反感・抵抗がある。京都市役所の寺社への拝観税の挫折事件や、大蔵省のグリーンカード挫折事件等がその代表的事例です。消費税でも収納者の所得の完全把握には成功していません。事業者が納税者で、制度不徹底の為「益税」と称して税金の一部を掠め盗れるのです。税金の負担者が消費者だから「公給領収書的な制度」で事業者の所得をも同時に完全に把握するシステム、インボイス方式が本筋です。
更に言うなら、物品税的に消費の川下で課税せず、「仕入れ税」とか「製造者消費税」のように、もっと流通の川上で課税すべきが本筋です。かくあれば、この私も消費税の増税には大賛成です。でもこのような意見は日本では空理空論で、バカにされます。日本人の「お上」観の根強い伝統、悪しき伝統の典型例が消費税反対論に出ています。所得の全面把握には絶対に反対、所得を隠し誤魔化す行為は日本文化の根強い伝統です。だから日本人に「公共」の精神は無いのです。

◎プライバシーの口実

戦後民主主義のご都合主義的な利用と悪しき強調に「プライバシー尊重」論がある。「国民総背番号に反対」という意見が典型代表例です。所得の完全把握に絶対反対するのが特に中間層・自営業者プチブルの本音ですが、多くの労働者もそれに乗せられています。もし、日本人が西洋的な高福祉高負担を望むなら国民総背番号に賛成すべきです。租税回避・脱税文化を捨てねばなりません。西欧の高福祉・高負担主義では所得の全面把握に社会的合意があります。脱税を許さない社会常識があります。
高い公共精神を持ち、主体性を確立した自律人間がプライバシーの尊重を口にするなら妥当性があります。しかし、所得を誤魔化したいプチブル連中がそれを口にするのは「所得把握回避行動→租税負担回避」が真意です。日本文化の文脈でのプライバシーの強調は極めていかがわしいものがあります。自民党支持層のプチブルが中心になって、政治的に無力な無党派層サラリーマンに租税負担をシワしわ寄せするのが真意です。

◎プチブル達の不満

プチブル達にも言い分があります。曰く、日本のような「お上権力」の下では、高い公共精神を持つと大損しますがな、プチブルとしては公共に目を瞑り、利己主義・租税回避行動に走らねば、税金が高過ぎてひどい目に会うのよ。他律人間ともいえる下層の弱者連中は「お上権力」を許容し、税金をほとんど出さずに、善政・おこぼれ頂戴を期待しているではありませんか。その連中の場合は税金を出すより、税金を取り返している比率の方が高いのです。私達、プチブル中間層にその金を出せというのはムシが良過ぎますよ。それにしても相続税が高いし、株の配当課税が高いし、あれこれ云々・・・。でもね、貧乏人には関係無いよね。

◎「お上(おかみ)」の継続性

今日でも国家が支配者で自分は被支配者という立場はかなり居心地が良い。被支配者としての人民は国家に全面的に依存しているので、国家側に包括的無限責任があると見なしているからです。人民は国家に対し一方的に求めるばかりで良いのです。国家の存立に人民は無責任で良いのです。国家の存立責任は支配者が負うのが当たり前なのです。人民はその外部に位置しています。お上権力の下での選挙は正しく機能しないで、むしろポピュリズムの弊害ばかりが目立つが、このポピュリズムを積極的に助長しているのは政治家側です。選挙運動の際の立候補者の言動がその最たるものです。
「国民」概念とは、正確には西欧的公共性の発達した国家の形成メンバーを言うのです。日本における被支配者・他律人間は唯の「人民」と言い替える方が良さそうです。例えば「ナショナリズム」という概念も西欧では国民のナショナリズムですが、日本の場合は支配権力者のナショナリズムです。それにも拘らず「日本民族のナショナリズム」と公称しています。しかしそれは決して「日本人民のナショナリズム」ではありません。国民なら国家意思の形成に責任を負うが、被支配者・人民の場合はむしろ無責任を強要されている。
支配者・権力者達の本音は「お上としては、お前達には責任を与えないよ。もし責任を持たせば、危なくて仕方が無いよ。俺たちの権力を揺るがすので、不安定になるよ。黙って請負民主主義の下で権力者に任せて盲従しておれば、美味しい餌を与えてやるよ」という構図です。選挙の際には「任せなさい」「悪いようにはしないよ、信用しなさい」と説く。この騙しの手は今も続いている。
愛国心も西欧的概念では国民の国家に対する愛着ですが、日本の愛国心とは「お上権力・支配体制を愛せよ」というのです。権力者に都合の良い強引な指導に盲従せよ「苦情や異議を唱えるな」お上に楯突く奴は非国民じゃ、という論法です。

このような国家原理は封建時代の半農奴的農民意識を今もそのまま引きずっているからです。なぜそのようになったかと言えば、明治以降も強権支配に天皇制システムを採用し、江戸時代と同様に「お上体制」を強化・連続させたからです。明治新政府としては、人民を管理・支配する装置として、徳川の看板を「天皇制」に更新するだけで安易に人民支配を継続出来ました。
敗戦後の新憲法でも、名目的には主権在民で法制的には天皇制を後退させたが、イデオロギーとして文化的には生かし続けました。更に「天皇制の事務局」(書記局)とも言いえる官僚機構はそのまま温存しました。ここに日本文化理解の根源があります。
戦前の官僚制度は天皇制の実働部隊でした。軍事もその他の行政も、天皇制政治が具体的に機能する形式が戦前の官僚制度でした。公務員は天皇への奉仕者で天皇への忠義が求められました。それが戦後の新憲法では、形式的は公務員は天皇への奉仕者から国民全体への奉仕者になりました。しかし、政治家への請負民主主義の形で歪み「お上文化」は連続・継承されたのです。
国や地方の保守系議員や首長は「お上」の地位に座り、それに投票する農民等は被支配者の地位に安住し、支配を請け負った政治家に包括的な全面・無限責任を追及する構図が定着し機能しました。このような請負民主主義の下での「利権構造」の中で戦後の民主主義は発達しました。
政治家・官僚・業界の三者はそれぞれにその利権構造にメリットを確保しました。この利権構造を支えている文化は紛れも無く「お上文化」であり、その深層部では天皇制イデオロギーが文化的にバックアップしているのです。しかし、文化的存在だとしても美しい象徴として不可侵性が求められます。天皇制は些かも揺るいでは困ります。このような「お上文化」や「天皇制文化」は宗教そのものです。西洋の風土にキリスト教文化が不可欠なのと変わりません。かつて共産主義思想を指して「ある種の宗教だ」と評した識者の論法が、天皇制文化についても言えます。

◎欧米の税金観

一方、欧米の「税金を出す」文化では小さい政府を望む米国型(低福祉・低負担)と、大きい政府型(高福祉高負担型)の西欧・北欧型があるが、両者とも脱税のような反社会的行為は極悪の没義道、赦されない反モラルとなります。脱税行為は同じ自分達の同じ仲間への裏切り行為となるからです。
だから税金が高いと思えば、脱税行為ではなく「反税運動」の形になります。税金制度そのものの制度改正運動です。高い税金を安く制度改正し、その税金はきちんと「出す」文化です。1978年カリフォルニアでの反税運動「提案13号」はその典型例です。
今の日本では旧制度が行き詰まり改革論議が盛んで自助努力も強調されています。しかし、それら改革は全て百%失敗するでしょう。何故なら「お上観念」は今後も健在だからです。他律人間も租税回避文化も不変です。

◎倒錯した自助努力

お上」に包括的無限責任を求める人民の圧力にたまりかねた「お上・支配層」が、それを押し返す意味で人民に「自助努力」を求める風潮が流行していますが、これは奇妙な倒錯現象です。お上自らが権力不信を奨励する事になります。そもそも自助努力とは「権力不信」の産物で、長い歴史に鍛え抜かれています。お上の権力支配の許では、人民の「高貯蓄・自己救済主義」は日本の伝統文化そのものです。今、何故そのような自助努力なる言葉が「お上」から出て来るのでしょうか。
実は「お上権力」を部分的な責任、有限責任にしてくれという権力側の悲鳴です。人民に無責任を強要しながら、他方で責任を求めるという、論理矛盾・自家撞着には無頓着なのです。このような場合、人民に責任を転嫁したいのならば、むしろ「共助努力」を求めるべきが本筋です。具体的施策としては増税政策こそが共助努力のあるべき姿です。この際、増税を堂々と人民に求めるべきが本筋です。
でも、残念ながらお上にその資格も勇気もありません。政・官・業の既得権構造をそのままにしてのご都合主義増税は悪政中の悪政になります。税金を合法的に掠め盗る「政・官・業」の連中に税金を払いたくない庶民感情には正当性があります。
大昔からお上のひどい仕打ちに対し、租税回避行動で対抗して来たのが日本の歴史です。そこに「権力不信」と表裏一体の「自助努力」を「お上」から強調されては、人民としてはより一層租税回避行動と対政府非協力主義に精出して自己救済に精進する外ありません。しかもこの自己救済主義は「お上が潰れても構わないよ、それでも俺だけは生き残ってやるぞ」という思想でもあります。それを奨励するお上は倒錯しているとしか言いようがありません。

◎兵役負担

 国民負担率とは、国民所得に占める、国税+地方税+社会保障負担とされています。国民所得が分母で税等は分子です。高福祉・高負担の西欧の企業は社会保障負担が大きくて競争力を無くしつつありますが、その点では低福祉・低負担の日本の企業は社会保障負担が軽くて助かっています。企業内福祉の高い負担はウソです、企業年金は真っ先に削減対象にされました。なのに「企業の国民負担率は軽い」と言うべきところを「法人税が高い」とほざいています。トータルな企業負担の軽さには触れないで、身勝手の極みです。
 しかし、よくしたもので、人民も企業の受ける恩恵とは別の大きな恩恵を受けています。それは「兵役負担」を免れていることです。だからバランスがとれています。憲法改正、特に九条の改正に反対の世論にはその類の正当性があります。国民に徴兵制が求められないからこそ、政・官・業の既得権構造にも目を瞑っているのです。あいつが良い目をして俺だけが損をするのは我慢出来ないが、俺にも取り分があるから黙認しているのです。
さて、米国に従属した安保体制の許で、米軍の命令に従う事に同意し、イラクへの派兵にも賛成した国民の皆さん、あなた方は徴兵制に賛成する義務があります。中でも自民党と公明党の支持者は真っ先に米軍展開の戦場に出かけましょうね。
今後、お上と人民との虚虚実実の駆け引きが面白くなります。お上文化のもとで他律人間に甘んじて利益を享受して来たものの、そのメリットが怪しくなって来ましたよ。