大野 正義
 (平成18年10月9日)   (25,11,23、補正
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  X、吉田茂批判
 
 道に迷った時は分岐点まで戻ろう。戦後の日本は自己確立し切れないままいたずらに年を重ね還暦も過ぎたが、国家として真に自己を確認するにはどうしても対米関係の抜本見直しが必要で、その為には昔に戻って吉田茂の単独講和選択を疑うところまで戻らねばならない。凡庸な外務官僚・吉田茂が生半可な使命感に燃えると怖い、無理に決断し日本の将来を誤った吉田茂はその典型例だ。逆に、判断出来無い状況で無理に決断しなかった西独のアデナウアーは正しかった。後の歴史がそれを証明した。対米従属の損益計算では日本はマイナス決算だ。

◎戦勝国文化の輸入史
 
 対外戦争で
大敗した後、その相手戦勝国からの文化の輸入・吸収を行った先例には、
@白村江での敗戦以後の遣唐使は、遣隋使や白村江敗戦以前の遣唐使の外交感覚とは違う
A明治維新もある種の敗戦体験である。西欧文化を急速に輸入した
B太平洋戦争での敗戦→アメリカ文化の輸入
◎ナショナリズムが悪でグローバリズムが善であるかのような言説はインチキだ。現代はナショナリズムが再評価されている時代だ。 
遮断・排除し、国家として強くアイデンティティを確認した歴史を持っている。@遣唐使の廃止(894年・寛平6年8月)、A弘安の役(1281年・弘安4年)、B徳川の鎖国令(1635年・寛永12年5月)である。この間隔は@〜Aが387年間、A〜Bが354年間、B〜現在が371年間となっている。この歴史の四度目の繰り返しは日米安保からの卒業であろう。
 道に迷った時は元の分岐点まで戻ろう。日本の自己確立の為には、遠い昔に「単独講和」を選択した
吉田茂を否定するところ迄戻らねばならない。今の日本の苦しみはアイデンティティを模索している苦しみでもある。日本は過去三回、ほぼ四百年毎に外国の影響を遮断・排除し、国家として強くアイデンティティを確認した鎖国の歴史を持っている。

@遣唐使の廃止(894年・寛平6年8月の平安時代)
A弘安の役(1281年・弘安4年、鎌倉時代)
B寛永の鎖国令(1635年・寛永12年5月、徳川時代)

C
令和の準鎖国(令和??年)日米安保からの卒業
  この歴史は
度目を繰り返すかな?
                                      

 米国のアジア観

 「東アジアは俺のもの(米国)」という縄張り意識である。その根拠は「大東亜共栄圏の盟主日本がアジアに持っていた全ての権利を勝者米国が
継承、代位取得している」という認識にある。だから米国のアジア政策は「既得権死守・積極介入主義」で、朝鮮やベトナムでは米国民の血を流すのを厭わなかった。現在、東アジアの安定が確保されているのは米軍のプレゼンスが大きいからという見解も、露骨な縄張り宣言であるにとどまらず、その正当性?が強調されている。

 帝国主義国としては後発であったわが日本も、「アジア戦線では英国やオランダに敗北していない」という
未練を残している。しかし、太平洋では米国に負けた、そこで吉田は米国のアジアでの代官になるという奇策に出た。その結果、米国に「アジアでの日本の権益を寄進する」という行動をとった。これが単独講和選択の意味である。
 
 本領安堵を願い出て許さる文化

 このような支配の手法は日本史では繰り返されている。荘園の所有者は京都の貴族であっても、現地での差配人・実質支配権は武士という構図である。権威を求めてわざわざ貴族に寄進したケースも多い。多少は変形しつつも同値同相の類似構造は多い。弱い戦国大名が強者に臣従することで本領安堵されたり、等々、日本文化に根強く残っている。
 
 そのせいであろう、アジア諸国側の日本観には帝国主義日本への疑念が今なお残る。本音では日本は負けたつもりでいないのだと見ており、その視線は正鵠を得ている。戦後、かなり時間が経過してからでも、日本の総理が東南アジアに出かけた際、厳しい目をした民衆から手荒い歓迎をされている。
 
 およそ同盟なるものは目的や期間が限定された並列的・対等関係で「合従」と呼ばれるものである。しかし、日米の上下関係では「連衡」に相当し、同盟には該当しない。

 今日、米国の軍事力戦争力との乖離が目立ち始めた局面では、そのプラグマチズムが限界を示しつつあり、情勢判断での既存の方程式が役に立たなくなっている。イラクからの脱出方法についてキッシンジャーの処方箋が「勝利すること」というありさまである。ベトナムと同様に泥沼にはまる選択をしたらしい。わが国は今や
敗戦国拘束・対米従属から完全脱出のチャンスが到来した。今川義元が討たれた時の家康の行動を思い起こそう。

 アデナウアーとの比較
 西ドイツと日本の置かれた戦後状況は大きく異なるが、西ドイツのアデナウアーは重い荷物を下ろそうとはしないまま、次世代の後継者と国民にその荷物を託して去った。その場合、必ずしも的確な長期的展望があったわけではなく、ドイツ国民は重圧に長く耐え忍ばねばならなかった。この点で目先の利益だけしか考えなかった吉田との違いは大きい。しかし皮肉なものでこのドイツではやがて時代が重荷を根本的に解消してしまった。一方、わが日本では吉田のツケは残ったままである。